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『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』重版記念!  日産自動車サッカー部初代監督・安達二郎が50年見守り続けるクラブの航路

日本サッカー史上初の日本人プロ監督。加茂周との運命の出会い

 次のステップに移行する時期が来たと、彼はすぐに行動に移す。本格的にチームを強くできる監督探しである。
 1973年夏、東大サッカー部の先輩である岡野俊一郎(元日本代表監督、元日本サッカー協会会長、2005年に殿堂入り)に相談することにした。すると、JSL1部の強豪・ヤンマーディーゼルサッカー部のヘッドコーチを辞めていた加茂周の名前が飛び出した。加茂と同じ関西学院大OBの平木隆三(元名古屋グランパスエイト監督、2005年に殿堂入り)から紹介してもらい、すぐ大阪に会いに行った。

 運命の出会いであった。
 同じ1939年生まれとあって、打ち解けるには時間を要さなかった。職場があってサッカーがあること、養成校出身で現場仕事の核となる人もチームに入っていることなど、部の事情を説明すると、納得し受け入れてくれた。会った日に、兵庫にある加茂の自宅に招いてもらって痛飲した。他からも声が掛かっていたようだが、日産を選ぶと言ってくれた。
 加茂からの条件は一つだけ。

「退職金は要らないし、成績が悪ければどうぞクビにしてください、良ければ給料を上げてください、と。この人は本物のプロだなって、改めて心を引き締めました」

 つまりはプロ契約。だが、会社の人事担当取締役にこの話を持ち込むと突っぱねられてしまう。

「当時はどの会社でも同じだったと思うんですけど、正社員にすることで雇用を保障するのが当たり前。プロだとそれができないから、なぜなんだと理解してもらえない。窮余の策として、私は当時プロのレーシングドライバーとして日産と契約していた星野一義さん、高橋国光さんというトップドライバーの契約書を持ち出して〝こういった事例があるじゃないですか。どうしてダメなんですか〞と粘りに粘ってやっとのことで認めてもらいました」

 かくして1974年に日本サッカー史上初の日本人プロ監督が誕生する。バトンを加茂に渡した安達は裏方に回って部を支えることになる。戦力外になった選手への退部通告は人に任せず、安達自らが対応することにした。

「嫌な仕事でしたけど、チームを強くしていくためには避けられないこと。本人に泣かれたり、選手のお母さんから手紙をもらったりしたこともあります。会社を辞める人もいましたけど、残ってくれた人とは今も親しい関係が続いています」

 安達の誠意と加茂の熱意。
 加茂に委ねたチームは順調に結果を残していき、1977年にJSL2部昇格を果たす。そして1979年には入れ替え戦に勝利して念願のJSL1部昇格を決めた。「7年計画」そのとおりになったのだ。

「そのころ私は会社で労務課長をやっていて、対組合関係の業務にほぼ掛かりきりになっていました。加茂さんもそこは分かってくれていたので、これはというところの判断を聞いてくるくらい。私の東大サッカー部の同僚が厚生課長だったので、彼が加茂さんの相談に乗っていました。現場の泥臭い工場と結びついた日産自動車サッカー部でしたけど、ヤンマーも同じ製造業。加茂さんもヤンマーでサラリーマンをやっていましたから、会社とは、現場の仕事とはどういうものかもよく分かってくれていました。そこも大きかったと思いますよ。
 みんなを集めて飲んだりもしていました。どうやってマネジメントしていくか。私と加茂さんはそういう部分でも最初から考えが一致していたように思うんです」

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新刊紹介

二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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