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『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』重版記念!  日産自動車サッカー部初代監督・安達二郎が50年見守り続けるクラブの航路

二宮寿朗『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』は1月26日の発売後、大好評につき即重版が決定しました! 

2022シーズン、クラブ創設30周年の記念すべき年に5度目のリーグ優勝を達成した横浜F・マリノス。その30年の歴史を選手や監督、クラブスタッフなど多くの人の証言から描いたノンフィクションが『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』です。先日、富士フイルムスーパー杯を制し、2月17日(金)の川崎フロンターレとのJリーグ開幕戦を向けて幸先よいスタートを切ったF・マリノス。

今回は重版決定&30周年のJリーグ開幕記念として、本書の序章に収録したF・マリノスの前身、日産自動車サッカー部初代監督・安達二郎さんのストーリーを丸ごと特別公開します。1972年の日産自動車サッカー部設立から、現在のF・マリノスにつながる50年の歴史は、マリノスというひとつのクラブだけでなく、日本サッカーの歴史の重みを感じる内容です。ぜひご一読ください。

(構成/「よみタイ」編集部) 
※安達氏への取材は2022年夏に行ったもの。文中敬称略。呼称や肩書は文中の同年時点のものとなります。

「港町の気性、”先進性、先駆者”はマリノスの特色。 横浜F・マリノスには永遠の存在になってほしい」(安達二郎)

 すべてはこの人から始まった。
 彼がいなければ、日産自動車サッカー部は、そして今の横浜F・マリノスは生まれることもなかった。
 1971年初夏のことだった。マクドナルドの第1号店が東京・銀座にオープンし、「仮面ライダー」が子どもたちの話題をさらっていたころ、日産自動車の横浜事業部に勤務していた安達二郎は銀座にある本社に呼び出され、思いがけない提案を受けた。

「近い将来、日本リーグに入れるようなサッカー部をつくってみないか」

 日本にプロスポーツが野球しかない時代。企業が野球、サッカー、ラグビー、アイスホッケー、バレーボールなど競技力に長けた人を社員として雇用し、部として運営していく形が主流であった。部の応援を通じて社員の連帯感、結束を強めていくという狙いのもと、日産自動車は野球部に続いてサッカー部の創設を考えるようになっていた。というのも、浦和高時代に全国高校選手権で優勝経験があり、東大サッカー部でも主将を務めていた安達は横浜工場のサッカー部(横浜サッカー部)に所属して、社内の工場対抗サッカー大会でも中心的な役割を担い、何より日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)とのパイプがあった。安達なしでは進められないプロジェクトだった。

 2022年、安達は80歳を過ぎてなお、F・マリノスの試合があれば日産スタジアムに足を運び、試合を見届けている。それが立ち上げた人の責任とでも言うように。
 部の立ち上げの記憶は、今も鮮明にある。

「ラグビー、バレーボール、サッカーが候補だったそうですよ。大学選手権や日本選手権で国立競技場を満員にできるラグビーは魅力的でしたが、いかんせん会社のなかでやっている人が少なかった。バレーボールも1964年の東京オリンピック以降、女子バレーが人気がありました。最もマイナーだったのがサッカーです。私は工場対抗サッカー大会の企画などもあってちょくちょく本社に顔を出していましたから、適任と見たのでしょう。〝部をやってみないか〞って言われたんです。サッカーは世界のスポーツだし、ワールドカップの盛り上がりを見ても、どうして日本に根づかないんだろう、日本のサッカーがもっと強くなって欲しい、と思っていました。漠然とではあったけど何かサッカーに貢献できるなら、という潜在的な思いもあって〝じゃあ受けましょう〞となったんです」

 安達は7年目に日本サッカーリーグ(JSL)1部に入る「7年計画」を作成する。目標になるべく早く到達するため、神奈川県2部リーグに所属し、自分もプレーしていた横浜サッカー部を引き継ぐ形にした。新たな部を創設してしまうと、一番下のリーグから始めなければならないためである。部のメンバーを入れ替えるために、大部分に辞めてもらわなければならなかった。つらい仕事ではあったが、誠意を伝えるほかに手立てはなかった。

「部員のみんなに事情を説明していき〝分かった〞と受け入れてくれました。そして〝強いチームになるんだったら〞と応援してくれるようにもなったんです」

1972年4月1日、「日産自動車サッカー部」が産声を挙げた

 次に有望な選手を社員として迎えなければならなかった。
 東大サッカー部の大先輩、竹腰重丸(元日本代表監督、2005年に日本サッカー殿堂入り)のもとを訪ねた。「チームの核となる人材は技術よりも人柄で選べ。頭でっかちの大卒チームをつくらぬこと」とアドバイスを受け、肝に銘じた。
 その教えどおり、同郷の浦和市出身で立教大サッカー部の主将を務めた鈴木保(元日本女子代表監督)をスカウトし、有望とみるや九州から北海道まで足を運んで高卒選手に声を掛けた。だが、いくら大企業の日産といっても、世間では企業が部を中途半端に投げ出す事例が多かったために「どうせ長続きしない」と断られることも少なくなかったという。
 それでも18人の部員を編成して1972年4月1日に、「横浜サッカー部」を引き継いだ「日産自動車サッカー部」が産声を挙げるところまでこぎつけた。
 初代監督の安達はスカウトのみならず、会社や各部署との調整役など一人で何役もこなさなければならなかった。寮もなかったため、野球部の寮を借りることにした。人事部出身ゆえにいろんな部署に顔が利いた。

「選手を預かるのは各職場なので、それぞれの上司に理解を得ることは大変でした。新子安(横浜市神奈川区)にあった日産のグラウンドを確保することだってひと苦労。社会貢献活動で地域にも提供していましたから調整が難しかったんです」

 朝8時から夕方4時まで働いて、5時から練習となる。立ち上げから1カ月後、今度は部員から不満が飛び出してくる。グラウンドも石拾いから始めて自分たちで整備しなければならない。サッカー中心だと聞いて入ったのに〝なぜここまでガッツリと仕事をやらされるんだ〞と練習ボイコット騒ぎが起こったのだ。さすがの安達も困り果てた。しかし頭を抱えたところで何の解決にもならない。電球一つぶら下がった寮の一室で一人ひとり説得して何とか騒ぎを収めた。
 辛抱強くチームづくりを推し進めて、監督就任2年目で神奈川県1部リーグを無敗で優勝する。スカウティングでも関東、関西の名門大学のキャプテンやマネージャーなどを呼び入れて、チームの柱となる人材を確保して組織の基盤をつくった。選手からの不満の声は次第になくなり、会社の各部署も理解を示してくれるようになった。安達の活動が、会社組織内にようやく認知されるようになってきたというわけだ。

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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