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「“メジャー”という言葉が嫌いなんです」。80年代、ラフィンノーズのデビューを手掛けた人物が語る、熱狂と挫折とインディーズ精神。 【トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一インタビュー前編】

絶賛発売中の『いつも心にパンクを。Don‘t trust under 50』。この本を書き終えた著者の佐藤誠二朗には、どうしても話を聞きたい人物がいた。稲葉貢一。誰しもが知るビッグアーティストを多数抱えるメジャーレコード会社、トイズファクトリーの代表取締役 CEOである。
多忙な業務の中、たくさんの貴重なエピソードを話してくれた今回のロングインタビュー。書籍の内容を補完するとともに、80年代以降の日本の音楽史・ロック史の貴重な回顧録ともなった。
前編では稲葉がトイズファクトリーを立ち上げるまでのストーリーをお届けする。(文中敬称略)

(取材・文/佐藤誠二朗 撮影/新保勇樹)
トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一。
トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一。

ラフィンノーズとの出会い。メジャーでの挑戦

1980年代半ば、東京をはじめとする全国の都市部のライブハウスやコンサートホールには、既存の音楽シーンとは一線を画す、アンダーグラウンドなバンド群が発するエネルギーが渦巻いていた。
大手レコード会社に属さず、独立したレーベルで自主制作による音楽活動をおこなうアーティストを示す“インディーズ”という言葉が定着し、雑誌や口コミを通じて新しいバンドの名前が次々と若者の間に浸透していった時代である。

トップを走るラフィンノーズ、ウィラード、有頂天の3バンドが、“インディーズ御三家”と呼ばれるようになる頃、メジャーレコード会社もいよいよ日本のアンダーグラウンドのパンク&ニューウェーブシーンを本格的に捕捉するようになる。

稲葉貢一は、現在、Mr.Childrenやゆず、BUMP OF CHICKEN、マカロニえんぴつ、ano、BRAHMANなど、幅広い人気アーティストが所属するレコード会社、トイズファクトリーの代表取締役 CEOを務める人物だ。
1981年、稲葉は設立直後の新進レコード会社であるバップに新卒入社。当初は宣伝部に配属されたが、入社2年目から制作ディレクターとなった。
そして入社4年目、稲葉は自らの人生を大きく変えることになるバンドと出会う。

ラフィンノーズである。

――ラフィンノーズのことを意識するようになったきっかけは何だったのでしょう。

「僕は当時、自分の手でアーティストを発掘したいと思っていました。ラフィンノーズが新宿のアルタ前で自主制作のソノシートをばらまいたことが話題になり、『宝島』に載ったそのときの写真がすごくかっこよかったんです。それで気になって、池袋の豊島公会堂にライブを観に行ったんですよ」

――実際にライブを観て、どう感じましたか?

「めちゃくちゃかっこいいなと思いました。疾走感があってノンストップで突っ走る演奏は衝撃的でしたし、自分たちの思いをすごく大事にしているバンドだと感じました。それ以前、僕はパンクをあまり聴いたことがなくて、語れるほどの知識は何もなかったけど、ラフィンノーズからはパンクロックのスピリットというか、前に進んでいくエネルギーを感じ、惚れ込みました。それで彼らに声をかけて、バップでレコードを出す話を進めたんです」

――アルタ前のソノシートばらまき事件が1985年4月。その年の11月にラフィンはバップからメジャーデビューしています。早い展開ですが、その間に何があったのですか?

「着々と準備を進めていました。当時は、レコード会社と所属事務所は別々でなければならないという通念があったので、バップからデビューする前にラフィンノーズの事務所をつくらなければなりませんでした。中野のレコード店オールディーズに、情熱的な方がいて、チャーミーと懇意にしていました。そこで、その方にラフィンノーズの単独事務所・オフィスグローリーを設立してもらいました。事務所の場所は地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅から歩いて1分の雑居ビルの2階でした」

――インディーズ御三家の中から、ラフィンノーズが先陣を切ってメジャーデビューを果たしますが、当時の社内やレコード業界で、アンダーグラウンドなパンクバンドを売り出すことに対する反対意見のようなものはありませんでしたか?

「なかったです。というのも、当時の僕はまだ新人のようなもので、業界に知り合いもいなかったし、バップ自体も日本テレビが設立して数年目の新興レコード会社でしたから。業界の事情に精通している人もいなかったので、逆風も感じにくかったのでしょうね」

――ラフィンノーズのメンバーは、メジャーデビューに向けてどんな姿勢でしたか?

「チャーミーもポンも、ナオキもマルも、とにかく全身全霊で人生を賭けて、一生懸命でした。チャーミーは特に、前に進みたい、存在をたくさんの人に知らせたい、伝えたい、だから上に行きたいという気持ちが旺盛。だから僕もそれに応え、ファーストアルバム『ラフィンノーズ』のレコーディングに際しては、トータルでなんでも全力でやりました」

――メンバーからの希望があったということは知っていますが、バップからのメジャーデビュー盤は、インディーズの頃と比べて音が大きく変わった印象がありました。

「彼らにとって良いことも悪いこともあったとは思いますが、彼らの希望を叶えるため、笹路(正徳)さんというプロデューサーにお願いをしました。それで、ファーストアルバムは西永福のスターシップというスタジオでレコーディングしたんですけど、かなり大変でしたね。笹路さんも最初は、『あー、こんなに下手なんてすごいな』と言ってましたけど(笑)、優しく引っ張ってくれました。そもそもライブの熱を求めるパンクロックと、技術による正確さを追求するレコーディングは、求めるものが相反する気がしました。それでもくじけず、メンバーも全力でやりましたから、インディーズ盤のような疾走感とはまたちょっと違う、彼らの良さが引き出せたと思います」

――インディーズのときにリリースした『プッシー・フォー・セール』という曲はメジャー版では『ミステイク・ナイト』と改題、歌詞も改変されていました。『戦争反対』も『1999』とタイトル・歌詞が変更されましたが、メンバーからの抵抗はなかったのですか?

「そういうことは全てメンバーと話し合って決めましたが、揉めた記憶はないです。意思疎通して、全員が納得してメジャーに向かっていった感じです」

――メジャーデビューシングル『ブロークン・ジェネレーション』のミュージックビデオもかっこよかったです。僕は高校1年生のとき、テレビであのビデオを見て、かなりやられました。

「あのビデオは、当時の洋楽番組をやっていたディレクターのチームにお願いし、アーティストのキャラクターや、持っているものを最大限にプッシュする撮り方で仕掛けたんです。メンバーそれぞれがスタジオで演奏するカットに、ライブのパフォーマンスをいいとこ取りでつなげ、手描きっぽいガチャガチャしたアートワークをミックスしました。チャーミーやポンはインディーズ時代から、バンドのキャラクターを手描きしたり、書き文字で広告やフライヤーを作ったりしていましたから、そんな世界観を重視して、メジャーフィールドでたくさんの人に訴えかけられるビジュアルにしようと考えました」

――演奏面では、どんな苦労がありましたか?

「メンバーの中では若い、ギターのナオキは、テクニック面で大変な努力をしつつも悩んでいましたね。土方(隆行)さんというギターの達人のスタジオミュージシャンに入ってもらい、プレイの見本を参考に演奏してもらって、トレーニングしながらレコーディングしていったんです。まだ19歳とか20歳だったナオキは必死で食らいついていきましたから、すごかったですよ」

――先に名前が出てきた笹路さんもそうですが、そうしたプロの世界の高度なテクニックを持つミュージシャンが関わることで、相乗効果が生まれたんですね。

「そうなんです。中でもすごいのは、今もラフィンノーズのライブのオープニングで流される『パラダイス』のオーケストラアレンジ。あれを作ったのが笹路さんです」

――なるほど‼ あれはすごいですよね。僕は今もラフィンのライブに行っていて、オープニングであの曲が流れると空気が一変し、一気に血が騒ぐのを感じます。

「他のバンドにはない、完璧なオープニングですよね。ちょっと世界的に見ても、すごく良いもののができちゃったと思いました」

――その後もラフィンノーズはバップから『SOS』(1986年4月発売のミニアルバム)、『ラフィン・ロール』(シングルを1986年10月、同タイトルアルバムを同年12月発売)とリリースを重ねていきます。雑誌やテレビへの露出も増えていきましたが、そうしたメジャー展開の中でも、ラフィンノーズに失わせてはいけないと思ったインディーズ精神のようなものはありますか?

「バンドの中心人物であるチャーミーが表現したいことを最重視するということは常に心がけていました。僕は裏表なく、なんでも正直にメンバーに話してましたから、どの曲がより伝わると思うかとか、どの曲をリードにするべきかといった意見はちゃんと伝えていましたし、彼らが知らなかった新しい風や世界を提供しましたが、その上でメンバーがやりたいこと、かっこいいと思っていること、ラフィンノーズとしてのブランドは守るというスタンスです」

――『SOS』から『ラフィン・ロール』へと進むなか、音がまた変化したというか、ややインディーズの頃のような荒削りのパンクサウンドに戻った感じがしました。

「つまりそれも、チャーミーがやりたかった方向性が出た、自然な流れだったんですよ」

――1986年7月に映像作品として『聖者が街にやってくる』のミュージックビデオが発表されています。荒野でメンバーが演奏するあの映像もかっこいいですね。

「ロケ地は伊豆諸島の大島の砂丘です。映像の中にヘリコプターが出てきますが、撮影のためカーキ色に塗装までしました。遭難するんじゃないかと思うくらいの濃い霧が出て、大変な撮影でしたけどやり切りました。僕らが結成したチームは、みんなラフィンノーズのことが大好きだったので、とにかく良いものを作ろうと懸命でしたね」

――ラフィンノーズは現在も、ボーカルのチャーミーとベースのポンを不動のメンバーとして活動しています。当時、稲葉さんにこの二人はどのように映っていましたか?

「当時から、この2人の組み合わせは最高でした。チャーミーはパンクのエネルギーを、『ちょっと待てよ!』と思うくらい爆発的に放出していて、多分、今もノンストップで飛ばし続けている。そんな体力がある、すごい人ですよね。一方のポンは色々なことをフォローしつつ、ブランディングも含めた戦略や方向性を決めていく役割でした」

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佐藤誠二朗

さとう・せいじろう●児童書出版社を経て宝島社へ入社。雑誌「宝島」「smart」の編集に携わる。2000~2009年は「smart」編集長。2010年に独立し、フリーの編集者、ライターとしてファッション、カルチャーから健康、家庭医学に至るまで幅広いジャンルで編集・執筆活動を行う。初の書き下ろし著書『ストリート・トラッド~メンズファッションは温故知新』はメンズストリートスタイルへのこだわりと愛が溢れる力作で、業界を問わず話題を呼び、ロングセラーに。他『オフィシャル・サブカル・ハンドブック』『日本懐かしスニーカー大全』『ビジネス着こなしの教科書』『ベストドレッサー・スタイルブック』『DROPtokyo 2007-2017』『ボンちゃんがいく☆』など、編集・著作物多数。

ツイッター@satoseijiro

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