2023.2.14
名門中の名門、灘中学校の国語入試問題に採用! 村井理子さんのエッセイを試し読み
『本を読んだら散歩に行こう』は、読書家としても知られる村井さんの読書案内を兼ねた濃厚エピソード満載のエッセイ集です。
本書より、入試に出題されたエッセイ「料理への重すぎる思いからの解脱」を一篇丸ごと特別公開。
この機会にぜひお楽しみください!
料理への重すぎる思いからの解脱
主婦として家事を切り盛りして二十年以上経過するが、最近になってようやく気づいたことがある。なにを今更と思うのだが、私にとってはなかなかどうして大きな発見だった。私が最も得意としていたもの、ここ数年で完全に熱意を失い、気持ちが冷め切ってしまっていた家事、そう、料理についてである。
なぜ料理がそこまでつらくなってしまったのか、自分なりにしっかりと考えてみた。まずは、自分の味に飽きたことがひとつ。そして、拒絶されることのがっかり感に、そろそろ疲れてきたのがもうひとつの理由だった(それはすでに前述した)。料理本とにらめっこして、どれだけ工夫を重ねても、新しいメニューに チャレンジすればするほど、「美味しい料理を作らなければ」という強い思い(そして重い)だけが空回りしたと気づく、あの瞬間である。
さあどうぞ、食べてみて! と張り切って出したとき、例えば子どもが微妙な表情をしつつも、「美味しいよ。でもお腹がいっぱいなんだ」と、私に対する優しさを最大限に発 揮して言ったとする。そして実際に息子たちは、そう言う場合が多い。そこで私はがっかりするのだが、同時にとても気の毒になって、そのうえじわじわと腹が立つのである。この、がっかり・気の毒・腹が立つのコンボが、二十年ほどのときを経て私を打ちのめしたのだと気づいた。大げさだが。
そしてなにより、「軽く腹が立つ自分」にも、軽く腹が立つ。なぜかというと、そこに「作ってやったのだから、喜んで食べるのは当然だ」みたいな、自分のエゴの存在をちらりと感じてしまうからだ。そして、その私の一方通行な気持ちを汲み取った子どもが、「美味しい」と言わねばならぬシチュエーションを作っている、そんな自分が嫌になる。
それじゃあどうすればいいんだよ……私が子どもの立場だったら、一〇〇%そう言うだろう。私だったら、絶対に、はっきりと、辛辣に言う。母さんは考えすぎじゃないの? そんな一方的な思いを押しつけられても、こっちだって困る。っていうか、重すぎるよ、その気持ち。べつに、手の込んだものを作ってほしいなんて言ってないよね? 簡単なものでいいのに、勝手に焦ってるのはそっちじゃん……私だったらこのように、流れるように言いますね。というか、言ったことがあります、実の母に。
自分の子ども時代を回想しつつ、熟考を重ねたとある日の夕方、私はとうとう最後の真実に辿りついた。私という人間は、料理だけに限らず、なにかと「考えすぎである」ということに。読者の皆さんはここで、「ようやく気づいてくれたか。長い道のりだったな」 と思われるだろう。とにかく私は、自分の気持ちが先行し、それが常に空回りするのだ。 特に、相手が自分の子どもだと、その傾向が顕著であると認めざるを得ない。だから私は自分自身に、肩の力を抜くこと、そしてなにより、「皿の上に自分の念まで盛り付けない」 という掟を定めた。二十年目にして解脱である。