2023.10.27
スピリチュアルと江戸文芸……ぶっとんだ世界を読む/書くということ【酉島伝法+児玉雨子 対談】
コロナ禍を予言したかのような小説
児玉 『るん(笑)』の単行本が発売されたのは20年11月ですが、ちょうどコロナ禍というタイミングも、この小説の不気味さを助長させているのかなと。
当時は、前代未聞の疫病が流行って、世の中が不安定になるなか、陰謀論を唱える方が一定数いたじゃないですか。こういう人たちって、まさしく『るん(笑)』の登場人物に通ずるところがあるなと。
読んでいる最中は、てっきり時事を取り入れた物語だと思っていたので、コロナのだいぶ前に雑誌に掲載されていたと知ってびっくり。酉島さんは予言者なのかと思いました(笑)。
酉島 たしかに『るん(笑)』を執筆したのは、コロナ前でした。「三十八度通り」を書いていたのが、2014年の後半くらいですね。そのずっと前から、さきほど話したような体験もあって、「世間にはスピリチュアルや迷信や陰謀論の世界で生きている人が想像以上に多い」という実感がありました。人間の脳は、科学よりもスピリチュアルの方に親和性が高いのかもしれないなと。そうした人たちが作る社会を突き詰めて書いていたら、自然と後のコロナ禍のあれこれに重なっていたという感じですね。三作目の「猫の舌と宇宙耳」を雑誌に発表した後にコロナ禍が訪れて、疑似医療や陰謀論が目立つようになり、『るん(笑)』への言及も増えて正直驚きました。けれど、もともとある程度いた層が、“コロナ禍で一気に表面化した”だけではないかとも思うんですね。
児玉 そうですね。『るん(笑)』の世界は、一見スピリチュアルや迷信が常識となりつつある架空の物語に読めますが、実は現実世界を再現している部分もあります。完全なパラレルワールドでもなく、かといって現実と地続きでもない、亜空間のような印象を受けます。
音楽で喩えると、レギュラーチューニングをずらした感覚です。ドの鍵盤を抑えているのに、違う音が聞こえてくるようなイメージです。
酉島 それは嬉しい感想です。まさしくそうで、『るん(笑)』の世界は、一般的な常識で成り立っているように見えるこの世界を、別の角度から映した景色だと思うんです。いま「レギュラーチューニングをずらした感覚」と言っていただきましたが、実際に執筆をはじめたときには、現実をイコライザ(低音・中音・高音のバランスを調整すること)でずらしているイメージがありました。一部の音だけを極端に高めたり低めたりすると、まるで別の曲みたいになるんですね。それでいて、最初は違和感があっても、聴き続けるうちにそういう音楽なんだと慣れていってしまう。
『浦島太郎』の意外すぎるその後
児玉 科学が浸透していない江戸以前は、もっと迷信や縁起を重要視していたはず。そう考えると恐ろしいですね。
酉島 それこそ児玉さんが上梓された『江戸POP道中文字栗毛』では、教科書には載っていないような“近世文芸の裏側”を、思いもしなかった現代カルチャーに接続しながら解説されていたり、語り直しがあったり、とすごく面白くて興味深かったです。
それらの紹介を読むと、物語の設定や展開がとんでもなく斬新であったり、当時の雰囲気が伝わるリアリズムであったり、と良い意味で“なんでもアリ”な印象でした。特に忘れられないのは『大悲千禄本』で、これはもう最高ですね。
児玉 『大悲千禄本』を紹介する章は、特に面白かったという感想を多くいただきました!
酉島 まず物語の設定からぶっ飛んでますよね。不景気に喘ぐ時代に、あくどい商人が「千手観音の手を貸す」というビジネスを始める。冒頭でいきなり観音様の手を切り落とす場面が出てきて、「観音様はなんでそれを許しちゃったの」「観音様の手でそんなことまでしてしまうの」とツッコミどころが満載で。それこそ迷信がまかり通った世界でもある。
児玉 なぜか観音様は優しいから許してくれるだろうって済ませていますが、かなり雑ですよね(笑)。
酉島 それでいてディテールが妙に細かいんですよね。染め物師に貸した腕は青く染まっていたり、遊女に貸したら心中立て(特別な男性への愛情を誓うため体の一部を捧げる行為)のため小指がなかったり、文字が書けない人が使うと梵字しか書けなかったり。ユーモアのある奇想が随所に散りばめられていて、当時の市井の生活模様が感じられます。
児玉 『大悲千禄本』のような洒落と滑稽に富んだエンタメ本は、その表紙の色から「黄表紙」と呼ばれていました。いわゆる「勧善懲悪モノ」や「お涙頂戴モノ」のように、ストーリーの味付けや道徳的な教訓も排除した、純粋なエンタメとして描かれていた。変な湿っぽさもなく、滑稽さやバカバカしさを存分に感じられるのが醍醐味です。
『大悲千禄本』にある“体のパーツが取られていく設定”は、私の大好きな『どろろ』や『ブラック・ジャック』など手塚治虫作品に通ずる部分がある。ただ、『大悲千禄本』が手塚治虫作品と違うのは、体の一部を失うことに対してメタファーやドラマ性も持たせていないところです。単純に発想のまま書き進めているので非常にカラッとしているんです。
しかも当時は、書店と出版社がほぼ同じ役割を果たしていた。もしかしたら当時の書店員も「これでいいんだろうか」と考えながら、「通常の店番業務が忙しいからそのまま出してしまおう」と思っていたのかもしれませんね(笑)。
酉島 なんでもアリな感じはそういう業態も関係していたのかもしれないですね。『大悲千禄本』の絵を担当しているのは、山東京伝(江戸時代後期に活躍した浮世絵師で劇作者)ですけど、彼が書いた『箱入娘面屋人魚』という、浦島太郎の子供が人魚になった話を以前知ったときにも、絵面と物語の奇抜さにびっくりしました。
児玉 浦島太郎のその後を描いた、いまでいう二次創作的な作品ですね。
酉島 そうです! ざっと話すと、浦島太郎の子供が人面魚となって、漁師に拾われて、そのあと遊女になる。そこでお客を取ろうとするんですが、あまりの生臭さに客が逃げてしまうという(笑)。
児玉 そんな哀しい人魚姫の物語ないですよね(笑)。
酉島 その後、人面魚は連れ戻されるんですが、漁師がある学者から「人魚を舐めると寿命が延びるらしいよ」とアドバイスされて“人魚舐め処”をオープンしたら、行列ができるほど繁盛する。でも漁師も人魚を舐め続けていて、気づいたら若返りすぎて子供になっている、というオチで。『江戸POP道中文字栗毛』の紹介作では、『大悲千禄本』もそうですし、古代ギリシャ神話と接続するようなアンドロギュノス心中ものの『比翌紋目黒色揚』とか、どうやったらこんな突拍子のないアイデアが浮かんでくるんだと思いますよね(笑)。
児玉 人間社会のなかに、奇抜で現実味のかけらもない発想がまかり通っているのがアンニュイですよね。しかも『大悲千禄本』の観音様が手を切り落とす理由なんかもそうですが、かなり強引なこじつけありきで物語が進んでいく(笑)。