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日本の歌詞は恋愛至上主義?フィクション化する恋愛と都市文化【児玉雨子×三宅香帆 古典対談】

歌とフィクションが揺れ動く古今文学史

児玉 自分で書いた歌詞の解釈を聞かれても、案外答えられなくて困ることは多いんですよ。というのも歌詞を書いていると、音に合わせて言葉を出しただけのことがよくあるから。そういう時に「この言葉はこの意味ですよね」と聞かれると、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない……と考え込んでしまいます。意味はないけど、作為はあります!

三宅 たしかに歌詞は本来、音で楽しむものなのに、最近の歌詞の内容を考察する文化はすごくテキスト重視ですね。リズムやメロディーについて考察している記事もあるけど、量が少ない。

児玉 ベテランのミュージシャンに「こんなに歌詞だけが考察される時代もないよ」と言われたことがあるんです。たとえばこのアニメの主題歌であるという状況含めて歌詞を考察された時代はあったけれど、歌単体で考察されることなんてなかった。ここまでみんなが「いい歌だよね」じゃなくて「ここはこういう意味で」と言い始めたのは最近のことなんだ、大変な時代に作詞家をやっているね、と言われました。
 昔は歌詞の扱いが基本的にはすごく軽かったらしくて。校正さんはいませんし、誤字もけっこうあったり。もうディレクターに勝手に歌詞を書き直されて、「これでやりますね」「いいよ」で出したり。今は絶対だめですけどね。
 だけど今は、言葉の音よりも意味が重視されすぎているような気もします。リズムの制約で生まれたフレーズもあるのに、意味がどんどん加速していく。「いいこと歌っているから、いい歌」みたいな風潮をすごく強く感じます。

三宅 言葉先行で、意味の時代。活字離れだと言われますけど、SNSを見ると、いまだかつて人がこんなに文字を書いて、意味を読もうとしている時代はありませんよ。でも歌だけでなく、フィクション全般で今は考察ブームというか、意味を見いだすことが流行している感覚があります。

児玉 「考察厨」と「踊れれば何でもいい」に二極化しているなと思います。意味をすごく考察する派か、TikTokの音源になるならなんでもいい派か。私はどっちかというと前者のほうでやっていますけど、TikTok向けのリズム重視な歌を書くと「急に何て意味のない歌を書いているんだ」と怒られちゃうんです。

三宅 ええっ、そんな怒られが。古典の話ですが、『万葉集』は漢字で全部書かれているので、漢字で遊んでいることも多い。音と文字が連ならない世界だと、文字や言葉で遊ぶ感覚があったんだなあと思います。たとえば「馬声」と書いて「い」と読ませる、それは馬の鳴き声が「イイーン」と聞こえていたから生まれた表記なんです。あるいは蜂がブンブン飛ぶから「蜂音」と書いて「ぶ」と読ませたり。そういう文字と言葉で遊ぶ文化が『万葉集』にはあった。

児玉 面白すぎる。『妄想とツッコミでよむ万葉集』を読んでいて感じたことですが、和歌は意外と、リズムを取るための言葉、つまりライミングの意識があったんじゃないかな。今の歌詞のほうがライミングの意識が薄く、むしろヒップホップあたりが和歌の言葉の使い方の系譜にあたるのかも。

三宅 江戸時代の黄表紙本も、すごく言葉で遊んでいますよね。

児玉 『江戸POP道中文字栗毛』でリメイクした黄表紙『大悲千禄本』は千手観音の話なんですが、本文も「手」のつく慣用句ばっかり出てくるんです。だから私もリメイク小説で「おまえ」じゃなくて「手前」と書いたり、「部下」じゃなくて「手代」と書いたり、現代の小説でなかなかできない言葉遊びができて、すごく楽しかった。目で見て楽しむ小説って今はあんまりないから。現代小説だったら、ちゃんと伏線回収したり、最後はテーマを読者に問いかけなきゃいけないけど、近世の文芸は基本的に個人が背負うテーマらしいものがない。それがすごく面白い。

三宅 近世文芸にはオチのない話も多くて、意味や教訓重視ではない、単なる遊びとしての文芸がすごく盛んだったんだなと思います。表現を追求するための表現、というものが多い感じ。たとえば『江戸POP道中文字栗毛』で知ったのですが、松尾芭蕉はかなり俳句の音に合わせて手直ししていたことに驚きました。有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」も、かなり修正していたと。俳句こそ、音の連なりだけで、即興で作っているイメージがあったので、そんなにも表現を模索していたのか! と。

児玉 あれは芭蕉渾身の一句なんですよ。温めた分だけ、ちゃんとヒットしててすごい(笑)。

三宅 その結果が俳句の地位を上げたわけだから、すごいですよねえ。実際、松尾芭蕉の表現があったからこそ、俳句が和歌よりも新しくてかっこいいものになった。正岡子規が夏目漱石と並ぶことも、芭蕉の表現追究がなかったらどうなっていたか!

児玉 でも日本文学史を眺めていると、歌とフィクションの地位は、案外揺れ動いているものだなと感じます。現代の私たちは歌より小説のほうが権威的に感じますが。

三宅 いやいや、むしろ古典文学だと、ずっと歌のほうが偉かったんですよ。フィクションは噓だから、噓を書く人の地位が低かった。たとえば「源氏供養」という能の演目があるんですが、当時は物語を書くことが罪悪だったから、噓を吐く罪を犯した、つまり『源氏物語』を書いた紫式部の罪を勝手に供養してやる……という厄介オタクの話なんです。

児玉 なんですかその激ヤバな話は。でもむしろ納得しました。私、近松門左衛門の「虚実皮膜の論」がずっとよく分からなかったんです。分からない、というより、何を今さら、と分かっているがゆえにピンと来なかった。近松は「フィクションとリアルは肉薄していて、芸術の真実はその接点にあり、写実だけではなくフィクションがあることでそれに迫ることができる」と強く主張しているのです。でもむしろ、「噓であることに誇りを持て」と声高に言わなければいけない時代だったのですね。噓は罪悪という価値観が背景にあったのか。

三宅 福沢諭吉も『学問のすゝめ』で「フィクションなんて読むやつはバカだ」みたいなことを書いてますし。日本ではフィクションの地位がずっと低かったんです。だからこそ権威付けしなければいけなかった。ある時期まで小説がえらそうにしていたのは、小説の地位が低かったころのトラウマなんですよ。

児玉 私、大学生のころ、文芸評論家に「おまえ、いつまでもアイドルソングなんて意味のないものに関わるのはやめて、早く小説を書け」と言われたことがあるんです。小説が偉かったころの名残りの発言ですね(笑)。

三宅 そんなこと言う人がいるんですね。その人がバカなんですよ。小説を偉く見せなければいけなかった時代に取り残されてる。

児玉 本当ですね。最近は小説がむしろポップなものになってきてるし、時代は巡りますね。

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三宅香帆

みやけ・かほ●文筆家・批評家
作家・書評家。1994年高知県生れ。大学院時代の専門は万葉集。著書に『妄想とツッコミでよむ万葉集』『(萌えすぎて)絶対忘れない! 妄想古文』『女の子の謎を解く』『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』など。

児玉雨子

こだま・あめこ
作詞家、小説家。1993年生まれ。神奈川県出身。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。2021年『誰にも奪われたくない/凸撃』で小説家デビュー。2023年『##NAME##』が第169回芥川賞候補作となる。

Twitter @kodamameko

(写真:玉井美世子)

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