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日本の歌詞は恋愛至上主義?フィクション化する恋愛と都市文化【児玉雨子×三宅香帆 古典対談】

ねじれにねじれた、日本文化の「恋」と「性」

児玉 これはファンを批判したいのではなく、かなり興味深く感じていることですが……私、そこまでエロい意味で書いてなかった歌を、性的に解釈されてしまうことがめずらしくないです(笑)。

三宅 えっ、アイドルソングにエロさ!?

児玉 たとえば「抱きしめられてみたい」というよくあるフレーズも、わりと性的な意味を与えられやすいなと感じます。あとは「頑張って夢に向かっていくぞ」みたいな意味で「ありのままの私で」と書いたら、「これから性的な接触をするために、丸裸になるという意味だ」とフロイトみたいに性愛に解釈する人がいたり。しかもどうやらそう考察する人たちの世代もジェンダーも、バラバラなようです。こんなにみんなの頭の中がセックスだらけなのに、報道番組では「恋愛しない若者たち」みたいな語られ方をするの、いったい何が起こっているんだ? と戸惑っています。

三宅 面白い。でも、それこそ江戸時代も、春画みたいなジャンルは絶対廃れなかったわけじゃないですか。日本人は、性愛をフィクションに全振りして、現実とは分離させる感覚が脈々と続いているのかな。

児玉 ありそう。今思いついたんですが、日本のアイドルソングの歌詞は性愛を求められやすい一方で、アイドルの衣装には比較的清楚や魔法少女的なかわいらしさを求めますよね。KPOPの衣装のほうがずっとセクシャル。今までそれを処女信仰みたいなものかなと考えていましたが、むしろ目の前で三次元の女性がセクシーな服を着られると戸惑う、性愛は歌詞だけで妄想させてほしい、みたいな感覚なのかもしれない。

三宅 そこに日本文化のねじれみたいなものがありますよね。恋愛が特別視されすぎて、すごくフィクショナルで、遠い、それがあるだけで世界が救われるようなものになってしまっている。恋愛も結婚も本来は日常生活の延長なのに。アイドルの恋愛禁止の規律も「付き合う=セックスする」という図式がみんなの頭の中で生々しさを伴うからこそ生まれるんでしょうね。ライブというハレの世界では恋愛の歌詞を歌ってほしいけど、日常のケの世界では恋愛する生身を感じたくない……結局、恋はフィクショナルなものであってほしいという感覚があるような。

児玉 ありますよね。現代に限らず、江戸時代もわりと恋愛がフィクショナルな世界だけのものだったんです。遊廓の場が恋愛をする場と決まっていて、そこは日常から分離されていた。ちなみに遊廓は、現代のホストや風俗と違って、お金を出せば従業員より優位に立てる場ではなかったそうです。冷たくされて帰されるとか、袖にされるのが良いんだ、という感覚も強くて、ちょっとイメージプレイみたいな場所。遊郭の恋は、当時の男性客にとってイメージの世界の、フィクショナルな非日常のものだったんだな、と洒落本を読むたび感じます。

三宅 なるほど、江戸時代に遊廓を舞台にした物語が多いのは、イメージプレイの前哨戦だったのか。洒落本は、遊郭のイメージを膨らませるためのものとして読まれてた部分もあるんでしょうね。そういう意味では、アイドルソングの歌詞で妄想を搔き立てられるのは、洒落本と同じ構造なのかもしれない。妄想のなかの恋、フィクショナルな恋を盛り上げる装置。

児玉 イメージにお金を払う文化であることは、現代の「推し活」も似ているかもしれませんね。遊里を取り扱った作品は、しょっちゅう男性客が貢いで破綻する話ばっかり出てくるし、「推し活」と呼ばれるものも多くはファンがすごく貢ぐ文化だし、どうして日本人はこんなにフィクショナルな恋に貢いでしまうのか(笑)。

三宅香帆さん
三宅香帆さん

三宅 日本だけじゃなくて、中国も投げ銭文化がすごいらしいですよ。アイドルに貢ぐ子どもが多すぎて、最近政府が規制したとか。貢ぐのはアジア圏の文化なのかも。

児玉 「推し活」ではありませんが、近年の中国のプロポーズは、男親の実家が女性にどれだけお金と広い家を貢げるかが重要らしいです。東アジア、貢ぎ文化がそこらじゅうにある。

三宅 今思い出したんですが、東アジア圏とヨーロッパで家庭の関係性を調べた『東アジアの家父長制 ジェンダーの比較社会学』(瀬地山角 勁草書房)という本があるんです。その本いわく、ヨーロッパでは親子関係より夫婦関係を重視するけれど、東アジア圏は夫婦の関係性が弱く、親子の繫がりがすごく強い。つまり東アジア圏の人々は、夫婦のような対等な関係より、親子のような上下のある関係に馴染みやすい、ということです。
 貢ぐのは、つまりは恋愛の関係性に、上下を持ち込む行為ですよね。相手を自分よりも「上」の人に仕立て上げるために貢いでいる。だとすれば、恋愛も性もフィクショナルなものになってしまう理由も、遊廓みたいな場で上下がある関係じゃないと恋ができないからかもしれない。対等すぎては、燃えない、的な。逆に、自分が崇める上の相手に貢ぐとなると、熱狂してしまう。

児玉 めちゃくちゃありそうですね。日本は、家庭内で恋愛し続けられないから。夫婦はパートナーというより、お父さんとお母さんの役割を果たす性格のほうが強い。
 明治時代の話になってしまうのですが、私が大学院で研究していた戦前の少女小説は「富国強兵のために子供を作ってほしいけど、学校では恋愛や性愛については教えられない。だから恋愛を教えるためのフィクションを載せた少女雑誌をつくろう」という国家有為の目的から生まれたらしいのです。結局、少女雑誌の投稿欄で女の子たちが暴れ始めて、吉屋信子のような才能が現れたわけですが(笑)。つまり明治時代から、学校や家庭のような場で恋愛を語ることはできなかった。少女小説というフィクションに、恋愛を語る役割を仮託していた。同じような傾向は今もあるんだろうなあと。

三宅 こないだ読んだ『立身出世と下半身――男子学生の性的身体の管理の歴史』(澁谷知美 洛北出版)に書いてあったのですが、明治時代、男子学生に対してはかなり強固に「恋愛するな、性的なことをするな、立身出世の邪魔になる」という教育がなされていたんですって。

児玉 でも小説、フィクションでは明治時代もかなり恋愛してますよね? 『舞姫』なんて取り返しのつかない話。

三宅 私の解釈ですが、『舞姫』は「恋愛するな、国のために働け」という日本の教育と、一方で当時入り込んでいた西欧的な「個人の自由意志はあっていいんだ、きみは自立した一個人なんだ」という感覚の矛盾に苦しめられた男の話なんですよ。ドイツで自由に恋愛することと、日本で国のために働くことを天秤にかけ、結局は後者を取りエリスを捨てたわけですが。

児玉 鷗外が素面ではエリートなのに、フィクションで『舞姫』や『ヰタ・セクスアリス』みたいな小説を書いていることに、恋愛と生活がねじれすぎだろと思ってしまいますね。

三宅 鷗外は『舞姫』を家族の前で朗読させたらしいですよ。

児玉 怖……。

三宅 そのあたりのねじれ方が、日本近代文学の訳わかんないところだなと。日本の場合、近代以降にやってきた恋愛忌避や慎み深さの観念と、江戸時代から続く恋愛のハレみたいな感覚がねじれた結果、フィクションや非日常で過剰に恋愛を語るようになっているのかもしれない。昔だったら和歌や俳句のような、今だったらライブやカラオケ、非日常の場でのみ恋を語ることができる。でも江戸や明治ならともかく、今に至るまでそれが続いているのは……。

児玉 おかしい。あまりにもフィクションが恋愛を担わされ過ぎてる。学校で性教育をしていると言っても、各器官の名前やはたらきを覚えさせる程度ですよね。いまだに恋愛については語られないわけですし。

三宅 本当にそうですよ。だから歌詞解釈でフロイトみたいなことになってしまう。

児玉 今日、お話ししていて、歌の歌詞が性的に解釈されやすい意味が繫がりました……。恋愛や性がそもそもずっとフィクションだったんですね。

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三宅香帆

みやけ・かほ●文筆家・批評家
作家・書評家。1994年高知県生れ。大学院時代の専門は万葉集。著書に『妄想とツッコミでよむ万葉集』『(萌えすぎて)絶対忘れない! 妄想古文』『女の子の謎を解く』『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』など。

児玉雨子

こだま・あめこ
作詞家、小説家。1993年生まれ。神奈川県出身。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。2021年『誰にも奪われたくない/凸撃』で小説家デビュー。2023年『##NAME##』が第169回芥川賞候補作となる。

Twitter @kodamameko

(写真:玉井美世子)

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