2020.12.26
なぜ108回叩くのか? 自称・煩悩まみれの僧侶が「除夜の鐘」の意味を解説
煩悩〜我がために除夜の鐘は鳴る〜
年末、年の瀬に「良いお年を〜!」と言われると、なんだか胸がソワソワする。まるでオチのある話をしている最中に、「え〜そろそろ宴もたけなわですが……」と話の腰を折られる気がするのだ。
まだ次の年を迎える準備なんてできていない。あれもしたい、これもしたい、もっとしたいことがある。まだ魂は5月半ばにいて、「あぁ、今年こそは彼女ほしいな〜」なんて願掛けしている上半期の夕暮れどきにいる。だというのに!
え? 本当にもう1年終わり? こんな志半ばで年、締めちゃうわけ? どしたどした、自分、この1年、一体何して過ごしてたの?
このとめどない胸のソワソワの正体。それは「まだ終わってほしくない」という願望だ。年末というわかりやすい時間の区切りが、365日前の自分と、現在の自分を浮き彫りにさせる。「あれ、俺全然、前に進んでないんじゃね? 前前前世どころか全然前進してないんじゃね?」と。
似ているものでいうと、夏休みの最終日、もしくは日曜日の午後4時。ただ同じ1日が終わるだけなのに、まるで地球最後の日のようにノスタルジーに浸ってしまうあの感覚。
時間よ、止まれ。誰もが乞い願い、赤子のようにジタバタする。あの日、もし彼女に気の利いたことを言えていたら……。「俺もその映画観たかったんだよね」と言えていたら……。勇気を出して、「今度映画観にジャスコ行かん?」と言えていたら……。
でも、そんなこと叶わないのは知っているのだ。それなのに、あってほしいと願ってしまう。そして、そんな欲望と現実とのギャップが、だんだんと心の痛みへと変わっていき、とうとう言葉にしてはいけないあの言葉、言語界のヴォルデモートがこの世に君臨する。そう、「現実マジしんど」が。
現実はマジでしんどい。しかし、そんなしんどさを自分の中に見つけたときこそ、チャンスなのだと僕は思う。仏教は、すべての存在には原因があって(縁起)、その原因さえなくしてしまえば、その存在も消えると説く。つまり、しんどいときは「しんどい」を取り除けるチャンスなのだ。
仏教が「しんどい」の原因としてあげるのは、「煩悩」。つまり、欲・怒り・妄想なのである。「あってほしい」と「ありはしない」の狭間で揺れるとき、人はすでに仏の先っちょを見ているのだ。