2021.8.22
ザ・ノース・フェイス、パタゴニア…アウトドアスタイルはなぜカッコいいのか。そのルーツは「ヒッピー」にあり
伝説のウッドストックフェスティバル
1969年8月にはニューヨーク郊外で、合言葉にラブ&ピースを掲げた伝説的な野外コンサート、ウッドストックフェスティバルが開催され、40万人以上の観客が集結した。
ザ・ビートルズやザ・ドアーズ、ボブ・ディランなど、世代を代表するビッグネームは出演を辞退したものの、三日間通しておこなわれたこのフェスティバルは、インドの聖者による祈祷ではじまり、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、サンタナ、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、ザ・フー、ジョー・コッカー、ザ・バンドなど、ヒッピー世代を引っ張る錚々たるメンツが出演した。チケットの配送が間に合わず、ほとんどフリーコンサート状態になってしまったことや、三日目には大雨にたたられ、会場が泥沼のようになるというハプニングに見舞われたものの、平和と愛を祝うために集った40万人超のヒッピーが、マリファナの匂いに包まれながら、幸せな時間を共有したという。
ヒッピーたちは、間もなく理想の世界が実現すると信じていたことだろう。
ヒッピーの終焉
しかし1970年代に入るやいなや、ヒッピー文化は急速にしぼんでいく。
背景にはさまざまな要因があるが、最大の問題は一部のヒッピーがカルト集団化し、あまりにも過激な運動を繰り広げてしまったことにある。
特に極端な事件が、ウッドストックフェスティバルの約一週間前である1969年8月9日に起きている。『戦場のピアニスト』で有名なロマン・ポランスキー監督の妻で女優のシャロン・テートが殺害されたのである。犯人は、ロサンゼルスでヒッピー思想を過激化させた狂信的カルト指導者、チャールズ・マンソンの一味である。シャロンの前にその家に住んでいたミュージシャンが、1967年に『LIE』というアルバムを自主制作していたマンソンをメジャーデビューさせなかったことに対して恨んだ人違い殺人であった。殺害された当時、シャロンが妊娠していたこともあって、世間からは大きな同情の声が集まった。
ビートの神であるジャック・ケルアックは、作家としての著しい成功によって生活が大きく乱れ、1960年代後半には重度のアルコール依存症を患っていた。表舞台から遠ざかり、酒をあおりながら反戦運動で盛り上がるヒッピーに悪態をつく孤独な日々を送った末、1969年10月に47歳で急逝してしまう。
翌1970年には、ウッドストックの舞台を盛り上げたミュージシャンが相次いでこの世を去る。9月にはジミ・ヘンドリックスが、10月にはジャニス・ジョプリンが、いずれもドラッグの過剰摂取で死亡してしまったのだ。1971年7月にはザ・ドアーズのジム・モリスンもやはりドラッグの過剰摂取で死亡している。
こうしたカリスマの相次ぐ非業の死も、ヒッピーたちの心に冷水を浴びせたことは間違いない。
ヒッピーからニューエイジ思想へ
結局、自分たちの活動ではベトナム戦争を止められそうもなく、理想の社会の実現はほど遠いと悟ったヒッピーたちは、急激に情熱を冷まし、一人また一人と長い髪を切っては、社会の一員へと戻っていったのだった。
しかし、それでもこのカルチャーから抜けられなかった者は、ヒッピーが持っていた東洋的な瞑想による精神拡大などの要素を際立たせ、やがてニューエイジと呼ばれる流れをつくっていく。ニューエイジはその思想もスタイルも非常に多様であったため、1976年にフォークシンガーのジョン・デンバーが米コロラド州につくったニューエイジ・コミューンなどの例外を除き、ヒッピーのような集団をつくることはなかった。世界中に分散された非組織的な人々が、共通の理想という概念を通じて、ゆるやかなネットワークでつながっていたのだ。
物質文明に見切りをつけ、霊的・精神的な文明へ転換することを目指し、環境を最重視した理想社会の実現を訴えるニューエイジ思想は、1980年代には注目されることが増え、日本を含む世界各国で新宗教を生んだり、スピリチュアルブームを巻き起こしたりするようになっていく。 現在でも信奉者の多いヨガや瞑想、パワースポット、パワーストーン、チャクラ、ヒーリング、アーユルヴェーダ、ホリスティック医学及びホメオパシー、ピラミッド信奉、チャネリング、引き寄せの法則などの考え方はすべて、ニューエイジ思想を由来としている。
また、日本のフジロックフェスティバルをはじめ、現在も世界各国で盛んに開催される野外ロックフェスティバルの一部の側面や、1986年からアメリカ北西部の砂漠で年に一度、一週間にわたっておこなわれている大規模イベント、バーニングマンなどは、現在でもヒッピー及びニューエイジの影響を色濃く残している。