2021.8.22
ザ・ノース・フェイス、パタゴニア…アウトドアスタイルはなぜカッコいいのか。そのルーツは「ヒッピー」にあり
ヒッピー時代の頂点
ヒッピーの本拠地であるサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区周辺は、ピーク時には約10万人のヒッピーが集まり、原始共産制への回帰を目指したコミューンをつくって暮らしていたという。こうした行動はフリークアウトと呼ばれていた。ほかにも膨大な数のヒッピーが、ニューヨーク、ロサンゼルス、バークレー、ワシントン、パリ、ロンドン、ローマ、東京など世界中の都市を埋め尽くしていた。世界的にヒッピー現象が最高潮に達していた1967年の夏は、サマー・オブ・ラブという名で後世に記憶されることになる。
1968年には、編集者のスチュアート・ブランドによって、野外生活や自然科学の知識から精神世界まで、膨大な情報を紹介するヒッピー向けの雑誌『ホール・アース・カタログ』が発刊される。誌面にはヒッピーのコミューンを支えるためのさまざまな道具や書籍、情報などが紹介され、ひとつひとつのアイテムには詳細なコメントとイラストがつけられていた。
その後の世界の出版物にも大きな影響を与えたこの雑誌は、1974年、裏表紙に〝STAY HUNGRY. STAY FOOLISH. =ハングリーであれ。愚か者であれ〞というメッセージを掲げて廃刊したが、アップルのスティーブ・ジョブズは2005年、招かれたスタンフォード大学の卒業式の式辞で、卒業生にこの言葉を贈っている。
日本のヒッピー
本場アメリカの動きと連動し、日本でもほぼリアルタイムでヒッピーが大量発生している。
長髪にラッパズボンを穿き、あえて定職に就かずブラブラしていた日本版のヒッピー。当事者たちが納得していたかどうかはわからないが、メディアはやがて彼らに、日本独自のものである〝フーテン族〞という呼び名を与えた。フーテンとは瘋癲、精神状態が普通ではない人や、定職に就かずにブラブラしている人を指す言葉である。
彼らフーテン族は1967年夏頃から、東京の新宿駅東口に集まりはじめる。駅周辺の路上や、〝グリーンハウス〞と呼んだ芝生や植え込みの中で寝泊りし、当時の日本では手に入れにくかったドラッグの代わりに、シンナーや睡眠薬遊びに興じた。昼間から酩酊状態でフラフラする彼らは、あっという間に世間の良識ある大人から白眼視されるようになる。
東京の国分寺では、ほら貝という日本初のロック喫茶を拠点として、コミューンが形成された。1968年にオープンしたほら貝は、有機栽培の素材を使った自然食料理を提供していた。
現在ではオーガニックという言葉で当たり前のものになっているが、当時は先駆的すぎて、一般の人はその真意をほとんど理解できなかったという。
自然回帰を求めた日本のヒッピーはやがて都市を離れ、鹿児島県の屋久島やトカラ列島の諏訪之瀬島、長野県の富士見高原や大鹿村などで土地を開墾し、共同生活をはじめる。彼らは日々、畑を耕し、魚釣りや瞑想をしながら、自給自足に近い暮らしをするようになった。
そんな日本のヒッピーはみずからを〝部族〞と呼び、国分寺コミューンは「エメラルド色のそよ風族」、富士見高原コミューンは「雷赤鴉族(かみなりあかがらすぞく)」、諏訪之瀬島コミューンは「がじゅまるの夢族(バンヤンアシュラムと呼ばれた時期もあった)」を名乗った。
1968年には、国分寺のエメラルド色のそよ風族が警察からの家宅捜査を受け、大麻取締法違反で五名が逮捕されている。これが、日本初の大麻摘発事件である。