2019.3.24
バブル崩壊、どこ吹く風。吉岡美穂など伝説のカリスマ・クイーンたちが明かす、2000年代“第二次黄金期”とは!?
カリスマ・クイーンが明かす、00年代の衣装&コミュニケーションツール秘話
00年代初め、“第二次黄金期”を築き上げた功労者は誰だったか? という問いに対して、必ず名前が挙げられる伝説的レースクイーンがもうひとりいる。菅谷はつ乃さんが、そうだ。
96年、レースクイーンを務める地元の先輩に「私の現場サポートをやってほしい」と、声をかけられ、国内有数のサーキットである栃木県のツインリンクもてぎへ。多くの観客、颯爽と立つレースクイーンなど、きらびやかな光景を目の当たりにしたことで、自身もサーキットの華となる道へ進んだ。
「初めて合格したのは、99年の全日本GT選手権での『チームNISMO』でした。先輩にくっついて見ていた90年代後半のサーキットは、ファンとの距離がまだ遠くて、ガードが固かったんです。ロープが張られて、近距離で接するのは許されなかった。でも、99年頃から、全日本GT選手権では状況が変わったんですね。ある人気のレースクイーンに“親衛隊”ができて、彼女がフレンドリーに彼らと交流することで、現在のようなファンとの近しい関係が始まったと言われています」
今でこそ、レースクイーンとファンとの距離はSNSを通じて、緊密になった。が、フェイスブックやツイッターの日本語版サービス開始が08年、さらにさかのぼって、アメーバブログが04年スタートであることを鑑みれば、00年代初めのコミュニケーションツールはどのようなものだったのか。再び、菅谷さんの話。
「ファンとのやりとりができる唯一の手段は、パソコンのホームページだったんですよ。熱心なファンが立ち上げてくれるわけです。レースクイーンの間では、自分のHPを作ってもらえたら一人前という認識でした。それから20年弱で、今のように進化するわけですから、この先ってどうなるんですかね。ちょっと興味があります」
コミュニケーションツールのほかに、00年代の特徴を菅谷さんはこう指摘する。
「やっぱり、コスチュームの変更ですよね。99年の時点で、ハイレグ水着をまだ採用していたレーシングチームもあったんです。たしか、『PIAA NAKAJIMA RACING』でしたね。でも、00年あたりからどのチームもへそ出し、ミニスカートのセパレートタイプに変わったんですよ。大きな理由としては……そのころハイレグ水着を着たレースクイーンへの盗撮が問題視されていて。品のないセクシャルな部分だけがクローズアップされることへの対抗策だと聞きました」
ちなみに、菅谷さんは02年、全日本GT選手権に参戦したチーム『SP AIR Team国光with MOON CRAFT』でレースクイーンを務めた際、自身でデザインを手掛けたコスチュームを着用。これは、当時も今も非常に珍しいケースだ。
「最初に見せてもらったデザインに、ちょっと違和感があって。だったら、自分で作らせてほしいと。すんなり、通ってしまったんです(笑)。今は華やかで凝ったデザインが多いですよね。可愛いコスチュームを着て、人前に立ちたいっていうのは、レースクイーン志望者が絶えない理由のひとつなのかなって感じます」
05年、全日本GT選手権は出走参加台数の増加、レースの国際化に伴い、SUPER GTに名称を変更。日本で最もメジャーなカーレースとなっていく。それと歩調を合わせるように、
レースクイーンも活気づき、ファンとのコミュニケーションはいっそう密接になった。
だが、至近距離で交流できる女神として、ひとり勝ちはできなかった。
2010年代、AKB48を主軸とした“身近なアイドルグループ”の台頭により、レースクイーンは新たな方向性を模索しなくてはならなかった。
(第5回に続く)
バナー写真提供/GALSPARADISE