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球団最後の優勝を経験した唯一の現役選手、岩隈久志が近鉄時代に学んだ大切なこと

来シーズンは、肩などのケガからの復帰が期待される岩隈投手。
来シーズンは、肩などのケガからの復帰が期待される岩隈投手。

“いてまえ打線”が点を取ってくれると信じて投げた

優勝を争う緊張感のある戦いを通じて、岩隈はピッチャーとして大切なものをひとつひとつ身に着けていった。ローテーションに加わったのはシーズン終盤の1カ月ほどだが、貴重な経験だった。

「ほかではできない勉強ができました。優勝を目指すチームの雰囲気をマウンドで味わえたのは僕にとって大きかった。ものすごく緊張しましたが、その後の財産になりましたね」

岩隈のうしろには、“いてまえ打線”がいた。これほど頼りになる存在はなかった。

「自分の力で抑えようなんて気はさらさらありません。『目の前のイニングをしっかり抑えよう。そうすれば打線が点を取ってくれる』。そう信じて、無心で投げました」

当時は「試合をつくる」という言葉はあまり使われることがなかった。岩隈は何の計算もせず、「気迫をこめて」投げ続けた。

「打たれちゃいけないと思って、投げました。1イニング、1イニングが必死でしたね」

近鉄自慢の“いてまえ打線”が放つホームランに、登板のないときの岩隈は心を躍らせた。まるで、野球少年のように。

「大差で負けている試合を追いついたり、逆転したり、すごいことばかりでした。代打で出た人がホームランを打つことなんかなかなかありませんが、あの年の近鉄では、めったにないことが毎日にように起きていたという印象があります」

岩隈はそれまでの野球人生で経験したことのない波の中にいた。

「とにかく、チームの勢いがすごくて、僕もそれに乗せてもらった感じです。毎日が刺激的で、本当に楽しかった」

1日でも長く一軍にいたい。少しでもチームに貢献したい。岩隈はそう考えていた。

「もう二軍には落ちたくないと思いました。一番の若手を先輩のみなさんが優しくしてくださったおかげで、優勝を味わうことができました」

シーズン終盤、岩隈はチームにいなくてはならないピッチャーになっていた。日本シリーズの第2戦で登板したことがそれを証明している。

2004年の大混乱の中で開幕から12連勝

プロ3年目の2002年、岩隈は開幕から一軍で投げた。23試合に登板して8勝7敗、防御率3・37、2003年は15勝10敗、防御率3・45、リーグトップの11完投を果たすなど、エースと呼ぶにふさわしい成績を残した。2004年には初めて、開幕投手を任された。

「その年は球界再編問題が起こって、いろいろと大変でしたが、僕はまだ若かったので、一生懸命にあがきながら投げていたという感じです。チームを背負うエースだという気負いはありませんでした。キャンプのときにネーミングライツ(球団命名権)の話が出ても、僕は気にしていなかった」

その年は球団存続のための署名運動、プロ野球選手会による初めてのストライキなど激動のシーズンだった。それでも、岩隈は開幕から12連勝。15勝2敗、防御率3・01、勝率8割8分2厘という成績を残し、最多勝利と最高勝率のタイトルを手にした。近鉄に在籍した5年間の成績は80試合に登板し、42勝21敗、防御率3・47。

近鉄が合併されるに際して、岩隈はオリックスに“分配”されたが、入団を拒否。東北楽天ゴールデンイーグルスに金銭トレードされた。

「近鉄の5年間で一番濃かったのは、やっぱり優勝した2001年ですね。自分の初勝利、初完封、北川さんの代打満塁サヨナラホームランとか、思い出はたくさんある。毎日が充実していたし、ものすごく熱かった」

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新刊紹介

元永知宏

もとなが・ともひろ●1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。『期待はずれのドラフト1位――逆境からのそれぞれのリベンジ』『敗北を力に! 甲子園の敗者たち』『レギュラーになれなかったきみへ』(いずれも岩波書店)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社)、『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』(インプレス)などの著書がある

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