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オリックスと合併し「近鉄バファローズ」が消滅したのは2004年。今からもう15年前のこと。“ホリエモンも登場した合併問題”“選手会主導の初のストライキ”など、日本中を巻き込んだ球界再編問題を覚えている方も少なくないだろう。
そんな、消滅した球団「近鉄バファローズ」の真実について今一度迫ったのが『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(元永知宏/集英社)だ。この本で取材した多くの近鉄在籍選手や関係者の中から、一部、書籍からは内容を加筆修正した3人のストーリーを紹介する。
ひとりめの“最後の監督”梨田昌孝氏、ふたりめの“最強の助っ人”ブライアント氏に続く3人目、本特集のラストを飾るのは、元メジャーリーガーにして“近鉄最後の開幕投手”である岩隈久志投手(読売ジャイアンツ)の証言――

球団最後の優勝を経験した唯一の現役選手、岩隈久志が近鉄時代に学んだ大切なこと

近鉄、楽天と一緒に過ごした先輩、礒部公一氏が同席するとあって貴重な時間を割いてくれた岩隈投手。来季の活躍をみんな期待している!
近鉄、楽天と一緒に過ごした先輩、礒部公一氏が同席するとあって貴重な時間を割いてくれた岩隈投手。来季の活躍をみんな期待している!

急成長した岩隈の4勝がなければ、近鉄最後の優勝はなかった

20歳だった岩隈久志にとって、2001年のことは忘れることができない。プロ初勝利、初完封を記録し、リーグ優勝を成し遂げ、日本シリーズ初登板を果たしたからだ。

190センチを超える長身右腕が大器の片りんを見せたのはプロ1年目の2000年、シーズンオフに行われた黒潮リーグの読売ジャイアンツ戦だった。日本シリーズを控えた巨人打線を、149キロのストレートとスライダーだけで抑え込んだ。

梨田昌孝が監督に就任した2000年、近鉄バファローズのチーム防御率は4・66(リーグ4位)。先発投手の台頭が待たれるなかで、2001年春季キャンプで一軍メンバーに選ばれた岩隈はひそかに手応えを感じていた。

「プロ入り前、スカウトの人にも、『はじめは走るのが仕事』と言われました。もちろん、1年目は一軍で投げることなんか考えられませんでした。でも、もしかしたら一軍で投げるチャンスがあるかもしれないと思うようになりました」

2001年の近鉄は投手陣に不安を抱えていた。前川勝彦、門倉健という経験のあるピッチャーはいるものの、安定感には乏しかった。“いてまえ打線”が奪ったリードを救援陣が総出でなんとか持ちこたえて勝利を積み重ねていたが、苦しい戦いを強いられていた。

岩隈は5月29日の日本ハムファイターズ戦でリリーフ登板し、初勝利をマークした。6月10日に初先発したあと、二軍落ち。

8月19日の福岡ダイエーホークス戦で先発して勝利をおさめた。岩隈が挙げた4勝がなければ、近鉄の優勝はなかったはずだ。

「初めて先発登板したとき、3回で5点も取られて降板したんですけど、簡単に打たれてしまったんです。そのとき、投手コーチの小林繁さんに『かわすんじゃなくて、もっと気迫のこもったボールを投げるように』と言われました。一軍では『うまくやろう』じゃダメなんだと思いました」

岩隈は二軍で心と体を鍛え、優勝争いをするチームに加わった。

「優勝争いしているときだったんで、ものすごく緊張しましたが、『気持ちをこめて、思い切って投げよう』と思いました。キャッチャーの古久保健二さんのミットだけを見て」

背番号48の岩隈が、疲労の色の濃いチームの救世主となった。

「リリーフで1勝、先発で3勝、完封勝ちもできました。1試合1試合を、ただ必死で投げました。キャッチャーの古久保さんや野手の方に声をかけていただいたおかげで、いいピッチングができました」

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元永知宏

もとなが・ともひろ●1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。『期待はずれのドラフト1位――逆境からのそれぞれのリベンジ』『敗北を力に! 甲子園の敗者たち』『レギュラーになれなかったきみへ』(いずれも岩波書店)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社)、『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』(インプレス)などの著書がある

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