よみタイ

2月15日はブッダの命日〜コロナ時代の今こそ噛みしめたい、仏教の祖「最期の言葉」

ブッダは最期に何を語ったのか?

 先行きの見えない未曾有の不安。誰かの足にでもしがみつかないと立ってもいられない僕たちの心とリンクするのは、仏教の開祖、釈迦の臨終をその弟子が不安そうに見届ける場面かもしれない。

 死が目前に迫った釈迦のもとに弟子のアーナンダが駆けつける。彼にとって、釈迦はリスペクトの尽きない偉大な先生である。その師が亡くなってしまったならば、そのあと自分はどう生きていけばいいのか……涙に暮れるアーナンダに釈迦はこう言ったのだった。

「自らを灯の明かりとして、自分をよりどころにしなさい(自灯明じとうみょう)」
「真理を灯の明かりとして、真理をよりどころにしなさい(法灯明ほうとうみょう)」

「自分と真理をよりどころにしなさい」。そう言葉を残して、このあと釈迦は激しい腹痛により、沙羅双樹の下で臨終を迎えるのである(入滅)。
 あのブッダの死因が食中毒だったという意外なエピソードはさておき、最期にこの言葉を語ったことの意味は大きい。だって、あの釈迦なんだもの、「俺を末代まで褒め称え、毎月20日には俺をテーマにしたキャンペーンを行い、俺が作詞作曲した歌を歌詞カードなしで斉唱しろ」と言っても、弟子ならば「はい喜んで!」と全裸待機するくらいには影響力もあっただろう。でも、すべてを手放し、弟子に最も大事な真理との向き合い方を言い残して、釈迦は旅立ったのである。その姿、まさに仏。

「あのメディアで取材されてた人が言うてるから正しいと思う。東大出てはるし」

 僕らはどうしても弱い生き物で、自分ではなくて他人に判断基準を委ねてしまう。でも、自分以外の何かを灯火としてしまうと、頼りにしていた灯火が消えた瞬間に行き先を見失ってしまうのだ。だから、この「自灯明 法灯明」は、他人ではなく自分自身が闇を照らす光となることを求める言葉である。
 ところで、仏教では「自分なんてない(無我)」と説くのだが、これを受けて「おいおい、釈迦ってば、最後にちゃぶ台返しかよ」と経を投げ捨てるのは早とちりである。仏教では最終目標として「自分」を失くすことを掲げているのであり、そのスタート地点はあくまで「自分の苦しみをどうにかしたい」である。自灯明とはつまり「プレイヤーはあなただよ」と自分を操作するコントローラーを握らせる言葉だと理解してほしい。

 仏教はよく「哲学っぽい」と言われることがあるが、ただ世界の理を解き明かすものではなく、それぞれのプレイヤーが存在することを前提とした「実践哲学」だと説明できるのだ。

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稲田ズイキ

いなだ・ずいき●僧侶。1992年京都の月仲山称名寺生まれで現・副住職。同志社大学を卒業、同大学院法学研究科を中退、その後デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、寺に定住せず煩悩タップリな企画をやる「煩悩クリエイター」として活動中。コラム連載など、文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」などリアルイベントを企画しています。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。Twitter @andymizuki
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