よみタイ

2月15日はブッダの命日〜コロナ時代の今こそ噛みしめたい、仏教の祖「最期の言葉」

2月15日は、お釈迦様が亡くなった日で、「涅槃会ねはんえ」といいます。
仏教の開祖・ブッダはその生涯を閉じるとき、何を語ったのか――
約2500年の時を超えて、コロナ禍の今こそ噛みしめたいブッダ最期の言葉と、その教えとの向き合い方について、平成生まれの僧侶・稲田ズイキさんが独自の視点で解説します。

※稲田ズイキさんの書籍『世界が仏教であふれだす』から一部抜粋・再編集してお届けします。

(構成/よみタイ編集部)

不安の正体は、よりどころの喪失

「諸行無常の響きありすぎワロタァ!」

 思わず、祇園精舎の荘厳な空気もぶち壊してしまうコメントも言えてしまうくらいには、世も末という感じだ。「もうこれ以上、盛者必衰の理をあらわさないでぇ!」とコロナくんの袖をひっぱっても、彼はどうも止まってくれそうもない。2500年前に釈迦が「一切皆苦(人生はどうしようもない)」と言ったことが、こんなにわかりやすい形で世の中に現れてしまったことに呆気なさすら感じる。ウイルスってぇもんは無慈悲極まりない。

 新型コロナウイルスが世界に現れてから約1年が経った。もしワクチンが開発されたとしても、数年以内に別のウイルスが流行るとも言われている。もはやどこへ行ったって、パンデミックは続くよどこまでも。

 思うに、パンデミックが他の災害と違うのは、一度に「最悪」が解放されて全員がドッと悲しみのどん底に降り立つのではなく、「最悪」がひたすらに続くことだ。絶望するにはまだ明日の心配があり、希望を持つには今が息苦しい。絶えずつきまとうのは「不安」である。

イメージ画像:写真AC
イメージ画像:写真AC

 こんなこと言うと寿命が縮まりかねないが、誤解を恐れずに言うと、仏教では不安とは妄想でしかない
 もちろん妄想といっても、ムラムラの類のものではない。「もしこうなったらどうしよう……」といった、自分の心が上乗せされた、ありもしない仮定のことを言う。それらはすべて仏教では「この世に変わらないものなどない(諸行無常)」という大前提のルールがあるのに、自分が無常ではないと思うことによって生まれたギャップでしかないのだ。「もしこうなったらどうしよう」ではなく、無常であるがゆえに「こうなる」可能性は必ずありうる。人生にバグは必然なのだ。

 そうはいっても、どうにも割り切れない気持ちはわかる。この不安の根底にあるものの正体、それはよりどころの喪失だ。よりどころとは自分が支えにするもの、もう少し具体的に言うならば、人生で遭遇する「答えの見えない問い」に何かしらの反応をくれるものだ。コロナ禍では答えの見えない問いにたくさん出会った。外出は控えるべきなのか、布マスクは意味がないのか、出社はするべきなのか、実家には帰省しないべきなのか、Go To キャンペーンは使うべきなのか、これから本当に大不況が訪れるのか、俺たちに希望はあるのか、あげればキリがない。

 全日本国民が同じ問いにぶつかり、政府も専門家も友人も親も、誰も答えを教えてくれないのだ。コロナ禍の不安とは、こうして国民規模で答えを教えてくれる人を探して、さまよっていた事態から生じていたのだ。

 そこにあるのは、いざというときに何を頼りにすればいいのかという、よりどころの喪失であった。地面に足さえついていれば、来たるべき日も無常の一つ。ワロタァァァと言えるはずなのだ。

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稲田ズイキ

いなだ・ずいき●僧侶。1992年京都の月仲山称名寺生まれで現・副住職。同志社大学を卒業、同大学院法学研究科を中退、その後デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、寺に定住せず煩悩タップリな企画をやる「煩悩クリエイター」として活動中。コラム連載など、文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」などリアルイベントを企画しています。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。Twitter @andymizuki
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