2023.11.2
午前2時のコンビニで過去問コピーを取る夫、そのとき専業主婦の妻は……。【おおたとしまさ新刊『中受離婚』一部試し読み】
「A3のコピー機をリースすればいいじゃん」
いくら家事や育児が忙しいといったって、専業主婦なんだから、俺よりは時間の自由もきくだろう。子どもたちが小学校に行っているあいだに、家の近所のコンビニでコピーくらいしておいてくれてもいいだろう。それを自分がカッターで整えるという役割分担なら納得できる。でも、あのひとは何もしてくれない。
コピー機のガラス面に過去問集を伏せて置き、ページをまたぐ部分ができるだけ黒い影にならないようにぎゅっと力を入れながら、ボタンを押す。コピー機が発する一瞬の閃光の中に妻の顔が浮かんでは消えていく。そのたびに、ほとんど怒りに近いみじめな感情が自分の中で脈打つようにこみ上げてくる。でも、これも自分の「仕事」だから、やるしかない。
ちょっとは手伝ってくれないかと、杏に頼んだことはある。頼んだというよりはほとんど吐き捨てるように、ちょっとはやってくれてもいいだろうと、当たってみたことがある。杏の返事は、「A3のコピー機をリースしているおうちも多いらしいよ。そんなに大変なら、うちもそうすればいいじゃん」だった。「そういう話じゃなくね?」と反論すると、「だって、あなたが自分でやるって言ったんでしょ。私がやってもどうせ曲がってるとかなんとか文句言うでしょ」とあっさりとかわされる。
おしゃべりで、社交的で、外面づ らはいい。存在感があり、学生時代から目立っていた。でも、性格は大雑把で、家の中では完全におじさん化している。コロナ禍になって、家でいっしょにすごす時間が増えてわかったことだが、子どもが小学校に行っているあいだ、いつもテレビで情報バラエティー番組ばかりを見ている。
社交的なわりには、友人が少なく、誰かと連れだって出歩くこともあまりない。もともと文学少女で、どこか陰がある。その陰の正体が何なのか、夫の穂高にもわからない。もしかしたらそのせいで、子どもを褒めてやれないのかもしれない。子どもの身の回りの世話はしっかりしているほうだと思うが、褒めているのを見たことがほとんどない。
国語の解答用紙をコピーして、この日予定していた分のコピーがようやく終わった。深夜二時をとっくに回っている。コピーの四つ角をきれいにそろえ、A3の封筒に入れ、広告の図版などを運ぶときに使う仕事用のカバンに丁寧にしまう。硬貨返却ボタンを押すと、百円玉と十円玉がジャラジャラと落ちてきた。それをいったんポケットにしまい、おつまみコーナーでチーカマを、ドリンクコーナーでチューハイの三五〇ミリリットル缶を手に取り、レジへ向かう。
「袋もお願いします」
ポケットからさきほどの小銭を取り出し、足りない分を財布から補う。
表に出ると人通りはまばらで、流しのタクシーをすぐにつかまえられた。
「とりあえず、都立家政の駅を目指してください。そこから先はまた説明します」
「はい」
タクシーの窓を少しだけ開ける。流れ込む都心のビル街の空気には、日中のほてりがまだかすかに残っていた。
「運転手さん、ちょっとこれ、飲んでもいいですか?」
「どうぞ」
「どうも」
チーカマのビニールをむき、炭酸が吹き出ないように注意しながら缶チューハイのプルタブをゆっくりと開ける。爽やかな刺激が喉を通り抜け、乾いた体に沁みわたる。チーカマをひとくちかじると、さらにもうひとくちチューハイを飲みたくなる。さきほどまで打ち寄せていた怒りに似たみじめな感情の波がクールダウンしていく。こうやって、やりすごすしかない。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて床に就いたとしても三時過ぎ。二時間ちょっとしか眠れない。朝六時からはムギトとの朝勉強の時間だからだ。
杏はあとから起きてきて、家族全員分の朝食をつくる。その間、穂高は洗濯機を回し、それを干してから出社する。コロナ禍で在宅勤務も可能だが、狭い家の中で杏と一日中いるのは気が重い。できるだけ出社するようにしていた。