2025.2.19
信じられない、もう二度と会社に行かなくていいなんて……最終話 事務員生活の終わり
『まじめな会社員』で知られる漫画家・冬野梅子が、日照量の少ない半生を振り返り、地方と東京のリアルライフを綴るエッセイ。
【前回まで】:冬野さんのデビュー作「普通の人でいいのに!」が生まれた、コロナ禍に勤めていた会社のエピソードでした。今回が連載最終回。最後の勤め先を辞めて専業作家になるまでが綴られます。
(文・イラスト/冬野梅子)
最終話 事務員生活の終わり
次の職場は霞ヶ関の近くだった。スーツ姿のサラリーマンたちと一緒に電車を降り、広い道路とビル群を抜け、堅牢そうな古いビルのエレベーターを上ると会社があった。最寄駅やビルの雰囲気からは想像もつかないが、今まで働いた職場の中で一番過ごしやすい環境だった。IT企業の事務スタッフという位置付けだが、募集要項に書いてあった「服装自由」は本当で、オフィスカジュアルという暗黙の了解も存在せず、みんなラフな格好で働き、女性社員のブリーチ率は高かった。私の配属されたチームは残業代がつかないため定時に帰るのが鉄則で、先輩は退勤時間になると同時にパソコンを切ってスーッと居なくなるし、定時に帰れない日が続くと上司に相談し仕事量や配分を調整するフローが出来上がっていた。
それだけではなく、この会社の過半数を構成するエンジニアとデザインチーム、そして事務スタッフの面々はびっくりするぐらい寡黙であった。数人ハキハキした明るい人もいたが、あとは本当に全員、挨拶すら覇気がなく社会人として心配になった。仕事中はほぼ無音、雑談なんて聞いたことがない。「普通の人」から生気を吸い取った無害で無機質な人間が配置されていた。ああ、なんて居心地がいいんだ。バイトという位置付けで入社したことを悔やむほど、ここで骨を埋めたいと思える環境だった。
黙々と問い合わせメールを捌いて、それが落ち着いたら、製品の動作チェックや事務を片付け、また溜まったメールを捌く、そんなことをしているとあっという間に1日が終わった。週明けと週末の仕事量は多いが、集中して定時上がりを目標にせかせか働くと定時ギリギリで仕事が片付くので程よく達成感があった。私の指導係になった女性の先輩も基本的に喋らず、質問などもチャットでやりとりする方が好きなようだった。もしかすると似たようなタイプが集まっているのか、職種の性質によるものなのか、この会社では口頭で指導をする人は部長などの役職者くらいのもので、あとは全員チャットで会話しているようだった。たまにドラマで、人間味のないドライな社風を表す時に、社員同士が口をきかずチャットで済ませる描写があるが、あんな冷徹な雰囲気の社員は一人もいない。どちらかというと口下手で、元気はないが穏やかな人ばかりだった。もはやここでは、感情を表現しながら「すみません、ここなんですけどぉ~」とすまなそうな声色を使ってみせる私が一番元気で、それが浮いてしまうほど。ここはまさに、地道に漫画を描きながら生活費のためだけに働くにはうってつけの会社である。電話対応も社内行事もない、与えられた作業だけすればいい。そしてこの環境を知った後では、スーツを着て名刺交換して、会議や展示会に参加して、「5年後の目標」を面談で提出するような普通の社会人にはもう戻れないだろう。
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入社して半年ほど経った頃だろうか、担当編集者から連載をやってみないかと言われた。あまりに予想外で驚いたのと、正直、連載などという大仕事がシロウトの自分に務まるとは思えなかった。せっかくのチャンスだから無駄にしてはいけない、でも、自信ない……と尻込みする私を見透かしたように、「今なら、短編がバズった後だからアドバンテージもあるし」と背中を押された。アドバンテージだそうだ。たしかに、私の人生でアドバンテージがあったことなど一度もない。仕事ももはや正社員コースからは外れ、結婚で生活費の負担を軽くするという目論見は連載を持つ奇跡より望みが薄い。バズった短編漫画にも出てくるマッチングアプリだが、あれも早々に自分には無理だとわかった。なんというか、減点されないための攻防をするタイプには、初対面の人と恋愛を主軸に会うというのはハードルが高いのだ。減点とはなにかというと、「キモいと思われない」「ウザいと思われない」「ヤバいと思われない」というように初対面の人からネガティブな印象を持たれないことに注力することである。その結果、無味乾燥な退屈で記憶に残らない人物像ができあがる。
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30代になって思うのだが、20代前半の「個性的だと思われたい」「面白いと思われたい」という抑えきれない欲求は、キモいと思われる危険性もあるものの相手との壁を崩すことに一役買っていたと思う。しかし、30代ともなると私も相手も型通りのOLとサラリーマンが板についている。世の中には、まともに社会人として経験を積みつつ、プライベートではフランクに人と距離を縮め密な関係を築く人がいるらしいが、私にはそのスイッチの切り替えが全くわからない。お互い退屈しているけれど、かといって好き勝手に自分語りをするのはマナー違反だし、相手の開示した分と同じ量だけ、同じ小ささと同じ浅さだけ開示しないと不快感を与えるかもしれない。おそらくだが、両者そんな感覚でジリジリと平行線を辿っていた。私の想像で失礼なことを断定して申し訳ないが、そのどこまでも可もなく不可もない存在感、「わかる」と思ってしまうのだ。お互い目も当てられないほど不恰好というわけではないし、目立つタイプでもないしイジメの標的になるタイプでもない、けれどそれは、出る杭にならずにソツなくやってきたから得られた恩恵であり、努力の結晶でもある。もはや我々のアイデンティティだ。無個性で無味乾燥でのっぺりした自画像、それが「私らしさ」であり、そんな自分が少し残念だったりもするが、今更この手法を手放せないでいる。そういう写し鏡みたいな人とのデートを重ね、自分には人と親しくなる力が足りないとわかった。恋にときめくには遅すぎたし、初対面の人と丸腰で楽しい時を過ごすには早すぎた。だから一旦、恋愛は諦めた。
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そんなことももはや過去の話となり、おとなしい人々に囲まれて「ここが居場所だ」なんて思っていたのだが、口下手そうなエンジニアさんや、全然喋らない先輩も、結構みんな薬指に指輪をしている。結婚や交際は、案外運とか偶然の産物だと今は思うのだが、当時は彼らの指輪を目の当たりにして、なんだか本当に、人生の学びが周回遅れなんだと実感していた。アドバンテージ、なし。漫画がバズったことが最初で最後のアドバンテージである。その漫画連載だって、私に末長く活躍できる才能があるからオファーがきたわけではないだろう。たまたまあのような惨めな劣等感を刺激する作品が、当時のTwitterの雰囲気に瞬間的に合っていたというだけである。そういう偶然のおかげなので、次の作品がうまくいくとも思えない。
本来、創作物とはほんの一握りの天才が世の中に発表するものだったのだろう。それが何十年、何百年とかけて広く普及し、新しい作品がたくさん生み出され、ネットで気軽に触れられるようになったおかげで天才が飽和状態になり、逆に今度は、私のような凡庸な人間の凡庸さを突き詰めた作品が面白がられるようだ。そうはいっても一過性のものだろう。本当に原稿料などもらえるのだろうか。会社を辞めたタイミングで「やっぱりナシで」とか言われるんじゃなかろうか。そんなことをずっと考えていた。
編集者に言われるがままネームという漫画の下書きを制作しつつ、会社では問い合わせメールを捌いて生活した。私にとっては居心地のいい職場だが、同じチームには辞める人も多いので、私が知らないだけでもっといい職場があるのかもしれない。コロナで職を失う人も多いのか、社長がそういうタイプを好むからか、個人事業主がアルバイトとして入ってくることが増えた。なぜ個人事業主だと思ったかというと、同世代か少し上くらいの男性が多かったからだ。彼らは内勤のバイトなのにワイシャツ着用で出社するし、エンジニアや私たちよりハキハキしているし、中には結婚指輪をしている人もいたので、既婚者でアルバイト一本というのは考えづらかった。
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