よみタイ

超合理主義のタクシー運転手ですら苦戦したコロナの現実

客足戻らず 2020年9月18日

 1か月と少し前に安倍首相が宣言した緊急事態。それが解除された日、東京で確認された新たな感染者は10人だった。北光自動車交通の一斉休業は、すでに1週間前に明けている。けれど、街の様子は休業前と少しも変わっていなかった。繁華街は、どこも無機質に沈んだ街に姿を変えたままで、煌々と輝くネオンだけが虚勢を張っている。夜は、走りまわったところで客なんていやしない。隔勤もナイトもなく、在籍する170人の運転手すべてが日勤をするようになっていた。

 景気は急速に悪化していると月例経済報告が判断を示し、IMFは、世界経済を90年前の大恐慌なみの不景気と予測していた。それなのに、株価が上がっていくのが不思議だった。感染拡大で1万6000円台まで急落した日経平均は、オリンピックの延期決定を受けてさらに下落すると思われたけれど、そうはならず、その日のうちに上昇に転じている。持ち直す要素なんてどこにも見当たらないのに、それでも持ち直した株価は、6月にはコロナ前の水準にまで戻したのだ。東京新聞が、世の実態をまるで反映していない「株価V字回復の怪」を書いたのは6月12日だった。

 いったんは一桁台に落ちた東京の1日の感染者数は、またすぐに増加し、7月2日には100人を超えている。日銀が「リーマンショック以来の低水準」と6月の短観を発表し、緊急事態宣言の解除後も「宿泊・飲食サービスに客足が戻らない」とメディアが報じた日のことだ。その1週間後には倍の224人の感染が東京で確認され、8月1日には、さらに倍以上、472人を記録する。発表される感染者数の大きさに比例して、街から人の姿が減っていくのが、フロントガラスの向こうに、それこそ手にとるように見えた。西山は、発表される数字に左右される都心を敬遠し、休業明けからは、地元、板橋区内での営業に徹していた。合理主義だの効率だのと言ってられない状況下での日勤だが、それでも、日々の水揚げは税抜きで2万5000円前後を確保している。コロナ不況のなか、都心を避けてのこの数字は並みの松にできる芸当ではない。

 この日までに確認されている感染者は7万8000人。こんな状態がいつまで続くのか、と思う。銀座に活気が戻るのはどれくらい先なのだろうか、と。訪日外国人が戻ってくるのはずいぶん先になりそうだ。9月18日の時点で、アメリカでは660万人が感染し19万人以上が亡くなっている。インドが500万人、ブラジルでは450万人近くが感染し、イギリス、フランスでは36万人以上、世界中で3000万人以上が新型コロナウイルスに感染し94万人が亡くなっている。日ごとの上積みは20万人超え、それが常態化している。

『コメダ珈琲店』は北光からだとクルマで5分の距離にある。9月14日、日勤を終えた半袖短パン姿の西山伸一は、ソーシャルディスタンスと記された張り紙で半分の席をつぶした四人掛けのテーブルにつき、いつもと同じくアイスコーヒーを注文した。

「抜きで2万6000円でした」

 今日の税抜きの水揚げを告げた彼は、評論家のように株価の怪を口にし、都内や国内外の感染者数をそらで言い並べ、延期された東京オリンピックの実現に疑問符をつけた。一年先の不安など微塵も感じさせないその話しっぷりは他人事でも語っているかのようだ。自信の表れなのか揺らぎの裏返しなのか、それとも、冷徹な判断は彼の常なのだろうか。いずれにしても、降って湧いたコロナ禍は、彼の、間近に迫った〝10年後の個人タクシー〟計画に少なからずの影響をおよぼしているはずなのに。

「大丈夫です」と、童顔の笑顔で西山伸一は言った。

「状況がどうでも、個人タクシーやりますから」

 東京オリンピック・パラリンピックが2021年に実現するとして、一大イベントが幕を閉じた2か月後、個人タクシーの免許取得のための試験が彼を待つ。それに合格すれば、開業は2022年1月だ。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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