2025.12.24
なぜ彼氏が撮る写真が下手だと傷ついてしまうのか?【こんな質問が来る 第3回】
ジロウがXに返答やリアクションを載せると、たびたびSNS上での「バズ」や時に「炎上」が起きる……
前回は、質問箱の定番と言える「おじさんはなぜ〇〇なのか?」というクレームのお話でした。
今回は、頻繁に届く「彼氏の写真が下手問題」の繊細さについて綴っています。

記事が続きます
彼氏や夫の撮る「盛れてない私の写真」に傷ついている
たとえば、こんな質問が来る。
「彼が撮る私の写真が下手で悲しいです。私のこと好きじゃないのかなと思ってしまいます」
軽快にスワイプしていた指が思わず止まる。めずらしく胸が痛む。しばしば見かける不満である。……いや、ごめんなさい。嘘です。「しばしば」どころではないです。めっちゃ来ます。「彼氏の写真が下手」問題。そして、この問題ばかりは僕も傍観者ではいられない。
「あのさ、あなたと一緒になってから、私はいつのまにかインスタに他撮りをあげなくなったわけ。なんでかわかる?」
これは質問箱のお便りではなく、実際に僕が妻に言われた言葉である。そうなのだ。僕がそうなのだ。パートナーの写真を撮るのが下手な男なのである。初手から土下座せんばかりの勢いだが、これから始まる約3000字はまことに申し訳ない気持ちいっぱいでお送りする。
「彼氏の写真が下手」問題はうちの質問箱でも定番テーマのひとつだ。話題に火がつくと、それがまるで狼煙のようにどこからともなく手負いの人々を呼び寄せ、質問箱にお便りが殺到する。日々、彼氏や夫の撮る「盛れてない私の写真」に傷ついている人たちである。
そう、傷ついているのである。
そんな大げさな、と思った人ほど気をつけてほしい。あなたに心当たりなどなくても、あなたのせいで傷ついている人はいる。それこそが人間関係のもっとも油断のならないところである。
誕生日や記念日。待ちに待ったデートや年に一回の豪華なディナー。いくらその場で心の踊るような時間を過ごしたとしても、感情の記憶は日々薄れていく。一方で、自分の手元にその思い出の確固たる証拠として残るものは写真である。
体験は一度だけだが、人間はその記憶を反芻する。現代の人ならば、その記憶の反芻作業はSNSの過去投稿やスマホの画像フォルダの遡上となる。とっておきの場所、とっておきの時間、そして、そこに写る「盛れてない自分」。そのたびにがっかりして、すこしずつ心が削られる。あの時の感情が日々上書きされていく。楽しかったはずの思い出なのに、その写真だけ、あまり見返さなくなっている自分に気がつく。
愛を疑うことよりも、むしろ自尊心が削れていくこの消耗感こそ問題なのだろう。
愛は我々の目に見えないし実在も確認できない。相手の何らかの行為や選択を通して間接的にその存在を感じることしかできない。そして、愛する/愛されるとは究極的には承認をめぐる問題である。愛されている実感とは自己が承認される実感である。だからこそ人は自分の望まない相手や望まないやり方で愛されてもたいして救いにならないのである。愛とは何らかの薬ではあるが万能薬ではない。効くのはいつも適切な傷口に適切なやり方で処方された愛だけである。
つまり、仮にいつもの思いやりのあるふるまいから「この人は私のこと愛している」と実感していたとしても、彼が撮った「盛れてない私の写真」を目にしたときの自尊心の消耗が救われるわけではないのだ。
そして、われわれが生きる現代、事態はさらに深刻である。人生の節目ごとに「自分はいまどれくらい幸せなのか」を実感する大事なイベントの多くは、恋人や配偶者など親密なパートナーと過ごすものであることが多い。誕生日を誰とどんなふうに過ごしたか。クリスマスを誰とどんなふうに過ごしたか。そしてそれをSNSにアップして知人友人たちに、または全世界に公開する。それはまるで自分はいまどれくらい幸せかを発表する人生の成績発表のようなものである。そしてその時間がいかに幸せなものであったかを証言するものが写真である。
だからこそ撮影役の責任は重い。「彼氏の撮る写真が下手」問題はつまり「大事なイベントの写真なのにいつも私が盛れてない」問題であり、それは人生の通信簿に直接響く問題となる。
このように「彼氏の写真が下手」問題は、人々の尊厳に美のものさしを押し当てるルッキズムと、人々の幸せの形を定義するカップル文化がもっとも不幸な形で重なり合って不慮の事故が多発する地点なのだ。現代の自意識と幸福をめぐる魔の交差点といえるだろう。
記事が続きます
![[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント](https://yomitai.jp/wp-content/themes/yomitai/common/images/content-social-title.png?v2)
















