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天野純希 「戦国サバイバー」

六角承禎―負けても勝った、名門大名

観音寺騒動 そして没落へ

 永禄六年十月、近江一国を揺るがす大事件が起こりました。名目上の六角家当主・義治が重臣・後藤賢豊を殺害したのです。
 賢豊は先々代当主・定頼の時代から家臣団の筆頭格で、承禎の信頼も厚く、家中で人望を集めていました。賢豊殺害の名目は無礼討ちということですが、具体的なことはわかりません。義治が賢豊の人望を妬んだとも、隠居後も実権を手放さない承禎の力を削ぐためとも言われています。
 実際、承禎は口うるさい父親だったようで、義治が美濃の斎藤家と同盟を結ぼうとした際、それに苦言を呈する書状も残っています。義治としては、公然と父に反抗するわけにもいかず、賢豊がそのはけ口として殺されたのかもしれません。
 この義治の行為に、家臣団は猛反発しました。賢豊と近い重臣たちはあっさりと義治を裏切り挙兵、浅井長政に支援を仰ぎます。この事態に、観音寺城の義治は城を捨てて逃亡、箕作城で隠居していた承禎も、義治の後を追って甲賀へと逃げ込みました。
 承禎は頭を抱えたことでしょう。定頼から承禎の時代にかけて、六角家は家臣団の統制を強めることで、守護大名から戦国大名への脱皮を果たしました。しかしそれは完全なものではなく、不測の事態が起これば、家臣たちは簡単に主家に牙を剥くことがわかったのです。
 結局、後に観音寺騒動と呼ばれることになる承禎父子と家臣団の対立は、賢豊と並ぶ宿老の一人・蒲生定秀の仲介によってどうにか収拾されました。
 しかし、実際に干戈を交えた両者の溝が簡単に埋まるはずもなく、この四年後には『六角氏式目』と呼ばれる分国法が制定されることとなります。
 分国法とは領国支配のルールを記した法律ですが、他の大名家のものとは違い、六角家のそれは大名家の恣意的な権力行使を抑制することに重きが置かれ、六角傘下の土豪・国人層の自立性を保障する内容となっています。これは、大名が配下の統制を強めていく世の流れとは、明らかに逆行するものでした。式目は家臣団が起草したもので、承禎父子は自らの権力を縛る法を認めさせられたということになります。その意味では、六角氏式目は法律というよりも、憲法に近いということができるかもしれません。『戦国大名と分国法』(清水克行著・岩波新書)では、六角氏式目のことを「日本版マグナ・カルタ」と呼んでいます。
 こうした経緯で、六角家は戦国大名としての権力を半ば喪失し、家臣団との深刻な亀裂を抱えたまま、最大の敵を迎えることになるのです。

 六角家が衰退に向かっていた永禄七年、三好長慶が病没、その翌年には、三好家を牛耳っていた三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)と松永久秀の子・久通が京都の将軍御所を襲い、足利義輝を討つという大事件が起こります。
 出家して奈良興福寺にいた義輝の弟・一乗院覚慶は、三人衆に幽閉されるも幕臣・細川藤孝らの手引きで逃亡、近江国矢島へ移った後に還俗しました。これが、後の足利義昭です。
 当初、承禎は義昭を上洛させ、将軍職に就ける方針で動いていました。そのために、仇敵の浅井長政と尾張の織田信長の同盟を斡旋してもいます。この同盟により、それぞれ敵対していた六角・浅井・織田、さらには美濃の斎藤龍興が和解し、義昭を支援する体制を築こうとしたのです。交渉は成功し、長政は信長の妹・お市を娶ることとなりました。
 しかしなぜか、承禎はここで方針を一転し、三好三人衆と手を結びます。これを察知した義昭は矢島を離れ、若狭、次いで越前朝倉家のもとへと逃れていきました。
 承禎がどういった目論みで義昭方から三好方へ鞍替えしたのかは不明です。後の歴史を知る我々の目から見れば「承禎さん、馬鹿だなあ」となりますが、承禎にはそれなりに勝算があったのでしょう。しかし結果として、この方針転換は大失敗に終わりました。
 斎藤家を滅ぼして美濃を制した信長は、越前から義昭を迎えて上洛の軍を起こします。信長は六角家に対し、義昭の上洛に協力するよう要請しますが、承禎はこれを黙殺、開戦は不可避となりました。
 永禄十一年九月、信長は岐阜を出陣、これに浅井家、三河の徳川家の軍勢が加わり、総勢は六万に達しています。
 これに対し、承禎は領内の支城を連携させた持久戦を目論みました。織田軍を六角領に張り巡らせた支城網で搦め捕り、三好三人衆の援軍とともに逆襲を狙うのです。
 ところが、観音寺騒動以後の六角軍の弱体化は、承禎の想像をはるかに超えていました。最初に織田軍の攻撃を受けた重要拠点の箕作・和田山両城が、わずか一日で陥落してしまったのです。
 想定外の事態に慌てた承禎・義治父子は観音寺城を捨て、祖先の例に倣って甲賀へと逃げ込みます。ゲリラ戦に転じて織田軍の疲弊を待つ策に切り替えたのでしょうが、祖父・高頼が幕府軍と戦った時とは状況がまるで違います。承禎の逃亡を見た六角家臣団は、次々と織田軍に降伏してしまいました。
 当面の脅威を取り除いたと判断した信長は、さらに軍を進めて三好三人衆を蹴散らし、九月二十六日に上洛を果たします。
 かくして、一時は京都にも進出し存在感を放った強豪・六角家でしたが、承禎・義治父子が重要なところで致命的な判断ミスを繰り返した結果、その勢力の大半を失うこととなってしまいました。
 もしも、承禎が三好三人衆と結ぶことなく義昭の上洛に協力していたら、その後の歴史はどうなっていたでしょう。
 革命児と呼ばれることの多い信長ですが、その政策は、楽市令や家臣団の城下集住など、六角家のそれを模倣していた形跡があります。信長は一般的なイメージと違い、旧体制を重んじる傾向にあったため、六角家を無下に扱うことはなかったのではないでしょうか。
 承禎が織田政権内にとどまっていれば、守護大名六角家は戦国大名を経て、近世大名へのアップデートに成功していたかもしれません。もっとも、それまでに何かしら致命的なミスを犯して滅ぼされる可能性の方が高そうですが……。
 さて、領地の大半と本拠地を失った承禎ですが、ある意味ではここからが彼の本領といってもいいでしょう。
 承禎はこの後、しつこさ、粘り強さ、執念深さというストロングポイントを最大限に発揮していくのです。

 上洛して畿内を制した信長ですが、ほどなくして義昭と不和になり、浅井長政の離反・大坂本願寺の蜂起に見舞われました。世に言う信長包囲網です。
 甲賀で息を潜め旧領奪回を狙っていた承禎は、ここぞとばかりに動き出しました。仇敵・長政や南近江の一向一揆と手を結び、反信長陣営に加わるのです。
 承禎は活発なゲリラ戦を繰り広げ、信長を苦しめました。叩いても叩いても逃げ延び、またちょっかいを出してくる承禎に、信長はさぞかし頭に来たことでしょう。
 ですが、いかんせん反信長陣営は寄り合い所帯。肝心なところで連携がうまくいきません。幾度か信長を窮地に追い込んだものの、元亀四(天正元・一五七三)年に武田信玄が没すると潮目が変わり、浅井・朝倉は滅亡、包囲網は瓦解します。
 翌天正二年、承禎の籠もる最後の拠点・甲賀石部城が、ついに織田家の大軍に包囲されました。
 雲霞の如き織田軍に対し、六角軍はせいぜい数百といったところでしょう。もはや、どこにも援軍は望めません。とうとう年貢の納め時か。そう思われましたが、この程度で諦める承禎ではありませんでした。折から降り出した雨に紛れ、義治とともに城を脱出。さらに山深い近江信楽郡へと落ち延びていったのです。
 とはいえ、組織的な抵抗はここまででした。これ以後、承禎・義治父子の行方は杳として知れなくなります。いまだ独立を保っていた伊賀の国人衆を頼って抗戦を続けたとも、大坂本願寺に身を寄せたとも言われますが、定かではありません。
 ここに、戦国大名六角家は完全に消滅したのです。

勝者or敗者

 石部城陥落から、十年近い歳月が流れました。信長は本能寺で倒れ、長きにわたった戦国乱世は、豊臣秀吉によって平定されています。
 その秀吉の傍らに、承禎・義治父子の姿がありました。御伽衆、すなわち、主の側近くに侍り、雑談や学問の講釈をする役目です。どういった経緯を経たものか、父子はいつからか秀吉に御伽衆として仕えていたのです。
 秀吉の御伽衆には、様々な人物が顔を揃えていました。商人や文化人、織田家臣時代の上司にかつての大名、旧主の織田一族(以前紹介した織田有楽斎も名を連ねています)、さらには、元将軍の足利義昭。低い身分から成り上がった秀吉は、周囲にそうした貴人、上流階級の人々を集めて侍らせることで、自らを飾り立てたのです。
 由緒ある近江佐々木源氏の嫡流が、没落の末、成り上がり者の飾り物にされる。後世の目から承禎の晩年を見れば、そこには憐れみを禁じ得ません。あるいは、プライドを捨ててまで権力者の側に侍る承禎を、嘲笑する向きもあるでしょうか。名門の誇りはどこへ行った。なぜ、信長との戦いで潔く散らなかったのか。
 しかし、当時の武士の至上命題は、誇りを守ることでも、華々しい最期を遂げて後世に語り継がれることでもなく、生き延びて家名を存続させることです。その意味で承禎は、父祖伝来の領地をすべて失おうと、世人の嘲りを受けようと、まぎれもない勝者でした。
 承禎の父・定頼の代に守護大名から戦国大名へ転身したかに見えた六角家ですが、それは甚だ不十分なもので、承禎の代には再び家臣団の統制に苦慮するようになります。さらに信長に敗れたことで、近江の一弱小勢力へと落ちぶれ、ついにはすべての領地を失ってしまいました。
 しかし、六角家が滅びたわけではありません。承禎は邪魔な誇りを捨て、屈辱に耐え、権力者の庇護を受ける旧名門へと、自らをアップデートしたのです。

 太閤秀吉の死に先立つこと五ヶ月、慶長三(一五九八)年三月に、承禎は山城国宇治で天寿を全うしました。享年七十八。当時としては異例と言っていい長寿です。
 あまり戦に強いイメージのない承禎ですが、信長に正面から敵対し続けてここまで長生きした人物は、他にそうはいません。それだけでも、彼の生命力は特筆に値するというものでしょう。
 承禎の嫡男・義治は秀吉の死後、その子・秀頼の弓術師範として豊臣家に仕え続け、慶長十七年に死去します。享年六十八。義治の弟・義定も元和六(一六二〇)年、七十四歳で没しました。いずれも、天寿を全うした末の大往生でしょう。承禎の生命力の強さは、子供たちにもしっかりと受け継がれていたようです。
 義定の子孫は、江戸幕府の旗本に召し抱えられたものの、江戸時代の中頃に嗣子が絶えて断絶。義治の子孫は、加賀藩士となってその血統を後世にまで伝えています。
 秀吉の御伽衆となった承禎の晩年がどのようなものだったかは、残念ながらよくわかりません。当然、彼がどんな思いを抱えて余生を生きたのかも、史料上から明らかにすることは不可能です。
 ただ、承禎が天正九年に、キリスト教に改宗したという記録が残っています。天正九年といえば、信長が独立を保っていた伊賀国人衆を殲滅した第二次天正伊賀の乱が起こった年です。この戦いは、伊賀国に暮らす九万人のうち、三万人が殺されたとも言われる凄惨なものでした。
 ここから、想像を逞しくしてみましょう。
 石部城陥落の後、承禎は伊賀に身を寄せ、失地回復のため細々と織田家への抗戦を続けていました。しかし織田軍の伊賀侵攻によりその野望は完全に潰えます。通常の戦ではなく、敵対する者は殺し尽くす殲滅戦です。承禎の眼前に広がる光景は、眼を覆いたくなるほど惨たらしいものだったでしょう。
 殺戮の巷を逃れた承禎は、命からがら堺あたりにたどり着き、潜伏を余儀なくされました。やがて何らかのきっかけから、ヨーロッパからやってきた宣教師と出会うのです。
 キリストの教えに触れた彼は、戦、謀略、権力争いに明け暮れた己の生涯を振り返りました。そして、そうしたものの虚しさに思い至り、改宗を決意する。
 承禎は、秀吉に召し抱えられた後も俗世と距離を置き、信仰に生きました。子や孫に囲まれて畳の上で大往生を遂げた彼の心は、大名だった頃よりも、ずっと穏やかなものだったことでしょう。
 すべては想像に過ぎません。乱世の武将が、そんなに甘っちょろいものか。そう仰る方もいるでしょう。
 ですがそう考えることで、彼の報われることの少なかった生涯に、一筋の光が射し込んでくる。僕にはそう思えるのです。

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天野純希

あまの・すみき●1979年名古屋生まれ。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞。2013年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞後、精力的に作品を発表し続ける注目の若手歴史小説家。著書に『青嵐の譜』『南海の翼 長宗我部元親正伝』『戊辰繚乱』『北天に楽土あり 最上義光伝』『蝮の孫』『燕雀の夢』『信長嫌い』『有楽斎の戦』などがある。

そにしけんじ

そにし・けんじ●1969年北海道札幌市生まれ。筑波大学芸術専門学群視覚伝達デザインコース卒業。大学在学中に『週刊少年サンデー』(小学館)の漫画賞受賞を経て、『週刊少年サンデー』掲載の「流れ力士ジャコの海」で漫画家デビュー。著作に『猫ピッチャー』、『ねこねこ日本史』『ラガーにゃん』『ねこ戦 三国志にゃんこ』『猫ラーメン』など。

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