2019.9.27
六角承禎―負けても勝った、名門大名
仁義なき戦い・京都死闘編
さて、長々と六角家の歴史を語ってきましたが、ここからが本題、我らが六角義賢さんの登場です。
義賢は大永元(一五二一)年、六角定頼の嫡男として生まれました。弓術は日置流、馬術は大坪流を、当代一流の師から学んでいます。特に馬術は、後に自ら佐々木流という流派を起こすほどの達人でした。後年、織田信長に呆気なく蹴散らされたことからイメージしにくいですが、個人的な武芸の腕前は、相当なものであったようです。
義賢は六角家中興の祖である父・定頼の死によって、三十二歳で家督を継ぎます。その頃、京都では細川家家臣の三好長慶が台頭、ついには謀叛を起こし、細川晴元と前将軍・義晴の跡を継いだ足利義輝を京都から追い出していました。定頼はこの争いを憂慮して和睦を斡旋しましたが、その交渉の最中に没してしまったのです。
義賢は父の遺志を継いで交渉を継続、晴元の出家を条件に、義輝が京都に帰還することを長慶に承諾させます。
伸張著しい三好家を相手に和睦を呑ませたことは、義賢の大きな自信となったことでしょう。また、当時の六角家は傑物の三好長慶をして、敵に回したくないと思わせるほどの力を持っていたという証でもあります。
しかし義輝は、自身に実権が無いこと、長慶が事実上の天下人のように振る舞うことを不満に思っていました。そしてほどなくして、出家した晴元と通じ、長慶の打倒を画策しはじめます。義輝は京都東山の麓に霊山城を築いて立て籠もり、晴元と共に京都侵攻を狙いました。ところが長慶の素早い反撃に遭ってあえなく敗走、またしても近江へ逃亡することとなります。以後、長慶は将軍・管領を戴くことなく、自らの実力で京都を支配しました。ここから、三好家は絶頂期となり、長慶は事実上の天下人として君臨することになります。
さて、義賢は父の方針に従い、近江朽木谷に落ち延びた義輝と晴元に救いの手を差し伸べました。本音では面倒ばかり起こす義輝にうんざりしていたかもしれませんが、そこは腐っても将軍。手元に置いておくだけでもそれなりに価値があるというものです。
しかし、義輝は後に『剣豪将軍』と呼ばれるほどの人物。黙って飼い殺しにされているはずもありません。義輝・晴元のコンビは義賢から援軍を引き出し、性懲りもなく京都奪回の戦いを挑むのです。
三好家との戦いを前に、義賢は家督を嫡男の義治に譲り、自らは出家して承禎と名乗ります。この時、承禎は三十七歳。討死にの覚悟を決めたというよりは、いつ何があってもいいように早めに相続をすませておくという意味合いでしょう。
永禄元(一五五八)年六月、義輝率いる軍勢は如意ヶ嶽に布陣しました。両軍はしばらく小競り合いを繰り返しますが、三好家の本拠である四国から続々と援軍が到着するに及び、形勢は三好軍の圧倒的有利となります。
そもそも史料によれば、この時義輝が率いていた軍勢はたったの三千だったといいます。これでは、畿内近国から四国にかけて広大な版図を持つ三好軍に勝てるはずもありません。承禎は頼まれたから兵を出しただけで、本気で京都を制するつもりなどなかったのでしょう。
戦況が膠着すると、承禎は早速、三好家と和睦の交渉に入りました。結果、義輝は再び京都へ戻ることとなります。
下剋上の代表格のように言われることの多い長慶ですが、義輝への措置はずいぶんと寛容です。やはり長慶にとっても義輝は、「腐っても将軍」だったということでしょうか。
ちなみに、晴元はこの和睦に不服で、長慶に人質として差し出していた息子をほったらかしたまま、姿をくらませてしまいました。乱世の父子の絆ほど、あてにならないものはありませんね。
決戦! 野良田表
これで畿内はようやく平穏を取り戻したかに見えましたが、そこは戦国時代、そう甘くはありません。次の火種は北近江の浅井家でした。
浅井家は、代々北近江に勢力を張る六角家の同族、京極家の配下でした。しかし浅井亮政の代に主家の内紛に乗じて勢力を伸ばし、下剋上を成し遂げます。ところが、亮政の子・久政は凡庸で、前述したように定頼の圧力に抗しきれず、六角家に従属する道を選びます。
承禎は浅井家との主従関係を確かなものとするため、久政の息子に自らの名の一字を与えて「賢政」と名乗らせ、家臣の娘を娶わせました。
しかし、これに浅井家の家臣団は激怒します。承禎自身の娘ならまだしも、家臣の娘をあてがわれることを侮辱と捉えたのです。
永禄二(一五五九)年四月、浅井家臣団は久政を強制的に隠居させると、弱冠十六歳の賢政を当主に据えました。賢政は妻を離縁して、六角家に送り返してしまいます。そしてすぐさま六角傘下の国人・土豪に調略をしかけ、肥田城主・高野瀬秀隆を寝返らせることに成功しました。
翌永禄三年四月、この報せを受けた承禎は、大軍を率いて観音寺城を出陣、肥田城に押し寄せます。
承禎は肥田城の周囲に堤防を築き、近くの愛知川、宇曽川から水を引き入れて水攻めを行います。しかし、落城寸前と思われたところで大雨に見舞われ、堤防が決壊したことでこの作戦は失敗してしまいました。承禎は戦法を力攻めに切り替え、肥田城にほど近い野良田表に布陣します。
そうこうしているうちに、浅井軍も本拠の小谷城から出陣してきました。八月中旬、両軍は宇曽川を挟んで対峙します。
軍記物によればこの時、六角軍は二万五千余、対する浅井軍は一万一千。この数字を鵜呑みにすることはできませんが、六角軍が浅井軍の倍近い兵力を動員していたのは間違いなさそうです。
賢政としては、苦しい状況です。ここで引き上げれば、肥田城を見捨てたことになり、賢政の信頼は地に堕ちます。敵に攻められたら見捨てられるとなれば、配下の土豪・国人が次々と六角家に寝返り、浅井家の支配が一気に瓦解することにもなりかねません。
しかし、六角軍は浅井軍の二倍。野戦を挑んだところで、普通に考えれば勝ち目などないでしょう。まさに進むも地獄、戻るも地獄の大ピンチです。六角軍が肥田城攻めに四ヶ月もの期間をかけたのは、浅井軍主力を小谷城から引きずり出す意図があったのかもしれません。
窮地に陥った賢政が選んだのは、野戦での真っ向勝負でした。若さによる血気か、あるいは野戦を挑むに足る勝算があったのか。いずれにせよ、後世に名高い「野良田表の戦い」の火蓋が切られることとなりました。
開戦当初、互いの先陣同士のぶつかり合いは、数で勝る六角軍の優勢となりました。しかし、ここで敗れれば滅亡が必至となる浅井軍は、粘り強い戦いぶりで、六角軍先陣を食い止めます。
戦闘開始からおよそ四時間。浅井軍の先陣に、さすがに疲れの色が見えてきました。ここで承禎が動きます。温存していた六角軍の第二陣を迂回させ、浅井軍先陣の横腹を衝かせたのです。浅井軍先陣はこれを支えきれず崩壊、何とか踏みとどまろうとした浅井家家臣・百々内蔵助も奮戦の末に討ち取られてしまいます。
このまま押せば、難なく勝てる。六角軍の誰もがそう思ったことでしょう。六角軍将兵は武功を求め、さらに激しく浅井軍を攻め立てます。先陣が壊滅した浅井軍は、戦線を維持するのがやっと。このままでは、総崩れは時間の問題です。凡百の将なら、この時点で勝利を諦め、退却を命じてもおかしくありません。
ところが賢政は、この状況で手持ちの兵力を二分するという挙に出ました。一手は家臣に預けて六角軍の足止めを命じ、もう一手は自らが率い、戦場を大きく迂回したのです。
賢政の狙いは、手薄になった六角軍本陣の強襲でした。前がかりになっていた六角軍主力は、いともたやすく賢政本隊の迂回を許してしまいます。気づいた時には、賢政は手勢とともに本陣へ突撃を敢行していました。
この捨て身の攻勢に、六角本陣は大混乱。武芸の達人である承禎も、こうなってはどうすることもできません。戦況は一気に逆転。承禎は這う這うの体で逃亡し、六角軍は総崩れとなってしまいました。
こうして、野良田表の戦いは浅井軍の大逆転勝利で幕を下ろしました。浅井軍の死者四百、六角軍は九百余。この勝利で、賢政は「江北の麒麟児」という異名をとることになります。この戦いからほどなくして、賢政は承禎から賜った「賢」の字を捨て、名を長政と改めました。後に織田信長の妹婿となり、信長を裏切って窮地に追い込んだ、あの浅井長政です。
一方、敗れた六角家のダメージには深刻なものがありました。
北近江と肥田城の支配権を失い、さらには倍する兵力で十六歳の若者に打ち負かされたことで、承禎の武威は大きく低下してしまったのです。このことが、後の六角家中の混乱へと繋がっていきました。
野良田表の戦いの翌年、近江坂本に流寓中の細川晴元は、将軍・義輝の勧めで三好長慶と和解し、再び京都の土を踏みました。
しかし、長慶はあろうことか、晴元を摂津普門寺に幽閉してしまいます。
この報せを受け、承禎は激怒しました。実は、晴元の妻は承禎の妹だったのです。承禎は前年の敗戦の痛手も癒えないうちに、反三好勢力による一斉蜂起を画策しました。
承禎が手を組んだのは、かつて長慶に敗れ、紀伊へ落ち延びていた前河内国主・畠山高政でした。これを、精強な鉄砲隊を擁する紀伊根来寺衆徒に支援させ、南北から三好領を挟撃しようと目論んだのです。
永禄四年七月、観音寺城を発した六角軍二万は京都の東に進出、同時に、根来寺衆徒を主力とする畠山軍一万が、南から三好領の和泉国岸和田に攻めかかります。
対する三好方は、京都の守備を長慶の嫡男・義興と重臣の松永久秀に託し、畠山軍に対しては弟の実休を当て、自身は本拠の河内国飯盛城に腰を据えて情勢を睨みます。
戦いは長期戦になりました。京都戦線では十一月二十四日、勝軍地蔵山城を巡って激しい合戦となり、双方に多数の死傷者を出したものの、その後は一進一退が続き、互いに譲りません。和泉でも、畠山軍と三好軍の睨み合いが続きます。
しかし翌永禄五年三月、畠山軍と三好軍は和泉国久米田で激突、三好軍総大将の三好実休が鉄砲で討ち取られてしまいました。この敗戦で三好家は大きく動揺し、義興・久秀は京都を放棄、六角軍は三月六日、ついに念願の入京を果たします。
ところで、この時期の「天下」という言葉は、日本全国ではなく、京都とその周辺を指すものでした。つまり、京都と畿内近国を制した者こそが、「天下人」と呼ばれたのです。その意味では、一時期の三好長慶はまぎれもなく「天下人」でした。
承禎に、長慶から天下人の座を奪う意図があったか否かはわかりません。ですが、上洛を果たしたこの時、承禎は間違いなく天下人の座に手をかけていました。ここが戦国大名・六角承禎のピークだったと言ってもいいでしょう。
さて、三好実休を討ち取った畠山軍は三月中旬、勢いに乗って長慶のいる飯盛城を包囲しました。三好政権の崩壊が、俄然現実味を帯びてきます。
しかしそこは百戦錬磨の長慶です。軽々しく出撃することなく、守りに徹して畠山軍の疲弊を待ち、態勢の立て直しを図ります。そして五月二十日、京都から撤退した義興・久秀と合流した三好軍は、河内教興寺の合戦で畠山軍を完膚なきまでに打ち破りました。畠山軍は総崩れとなって敗走、その勢力は事実上消滅します。
この間、京都の承禎は何をしていたのでしょう。入京直後、承禎は洛中に徳政令を発布し、武士や民の慰撫に努めました。しかしその後、畠山軍の要請に応じることなく、二ヶ月余りの時を浪費しています。
兵糧が欠乏していたのか、勝軍地蔵山城での激戦の痛手が大きかったのか、あるいは承禎が病に臥せっていたのか。その真相を、史料から明らかにすることはできません。しかし、翌年に六角家で起こった大事件を考慮すると、この時すでに、家中に不協和音が生じていた可能性が高いでしょう。
理由はさておき、畠山軍を壊滅させた三好軍が京都に迫ると、承禎はまともに戦うこともなく近江へ撤退します。
こうして、掴みかけていた天下人の座は、承禎の掌からするりとすり抜けてしまいました。