2019.6.24
小田氏治―戦国最弱の愛されキャラ
弱さに秘められた強さ
氏治の戦歴を語るのにずいぶんと紙幅を費やしてしまいましたが、これで小田氏治という武将がいかに戦下手か、おわかりになったかと思います。
ちなみに、小田氏に関しては同時代史料が少なく、これまで述べてきた合戦についても、多くは後世に編纂された軍記物の記述に拠っています。なので、合戦の年次や経過には諸説あり、不確かなものにならざるを得ません。ただそれを差し引いても、氏治が合戦に敗けまくり、小田城が落とされまくったことは間違いありません。
一口に戦が上手い、下手と言っても、そこには様々な要因が関わってきます。作戦を立案し、遂行する能力。相手の意図を読む洞察力、刻々と変わる戦況への対応力などなど。
さらには、麾下の将兵の能力や士気、練度、軍の土台となる領地の人口や経済力や外交関係なども大きなファクターであって、個々の合戦の勝敗を氏治一人の能力に求めるのは、無理がある話です。
確かに、これほど合戦で敗けまくっている将というのは、なかなか例がありません。戦場での指揮が稚拙だったことも、紛れもない事実でしょう。
しかし見方を変えてみると、敗け続けるということは、それだけ戦い続けることができたということでもあります。
氏治は九度、居城を落とされていますが、そのうち八度は奪回に成功しています。これほど居城を奪われながらも当主が生き延びた大名家は、他にはいないでしょう。多くの大名家の場合、居城を落とされることは即、滅亡に繋がるものです。それが、滅亡どころかすぐに再起し、城を奪還する。戦国史上どころか、日本史上でもここまでしぶとい武将はそうそういません。
もしも小田氏治という人物が生まれなければ、あるいは早い段階で討死にしていれば、戦国関東の情勢はどう変わっていたでしょうか。
小田領は、佐竹氏と北条氏のいわば緩衝地帯として機能していました。これが早くに佐竹領になったとすると、佐竹・北条の直接対決となり、その結果、佐竹氏は奥州へ進出する余裕を失ったと思われます。それは回り回って伊達政宗の勢力拡大が早まることに繋がり、伊達・北条・徳川の三家による東国連合対豊臣政権という構図が生まれていたかもしれません。
ちょっと発想が飛躍しすぎな感もありますが、その可能性はゼロではなかったでしょう。氏治の小田城への執着も案外、後世に与えた影響は大きかったのです。
さて、ここで二つの疑問が生じます。
その一。なぜ彼は、度重なる敗戦でも討死にすることなく、生き延びることができたのか。その二。なぜ弱将のはずの氏治が何度となく再起し、城を奪還することができたのか。
まずは、疑問その一。あくまで私見ですが、氏治の戦にはどこか淡泊さが感じられます。「何があろうと踏みとどまる」とか、「ここで全滅しても一矢を報いる!」といった粘り腰が見られず、不利になると即座に逃げる。それが小田城の陥落に繋がることも多々あったわけですが、一面ではその粘りの無さが、致命的な敗戦を避けることに繋がったとも言えるわけです。
これが氏治の臆病さによるものか、それとも経験から来る「こりゃ、もう勝てないな。次回がんばろう」という見切りの早さによるものかはわかりません。いずれにしろ、戦場では再起不能になるほどの敗北を喫しなかったというのがポイントです。
続いて疑問その二。こちらははっきりしています。不思議なことではありますが、氏治にはなぜか、領民からの絶大な人気があったのです。
小田領の領民たちは、氏治以外の大名が小田城を奪うと姿を隠して年貢を納めず、氏治が城を奪回すると戻ってきて、しっかりと年貢を納めたそうです。また、氏治が元旦早々城を追われた際には、呼びかけに応じて五千五百人もの軍勢が集まり、すぐに城を取り戻すことができました。
家臣たちについても同様で、普通の大名家であれば、これだけ敗け続けていれば離反するか、謀叛を起こして別の有能な人物を当主の座につけるものです。戦国の武士たちに、江戸時代のような武士道は通用しません。己が生き残るために不利な主君は、あっという間に放逐されてしまう。そしてその場合、非は裏切った家臣ではなく、弱い主君にある。それが、戦国の論理でした。
しかし氏治の家臣たちは、敗戦続きの主君を見捨てることなく仕え続け、骨身を惜しまず最後まで氏治の戦に付き合います。小田氏が鎌倉時代から続く名門であったということもあるでしょうが、やはり氏治にはある種のカリスマ性があったのだと思います。平和な時代に生まれていれば案外、名君として名を残したかもしれません。
冒頭に野球の話をしましたが、弱小チームには弱小チームなりの魅力というものが存在します。そして往々にして、そうしたチームには熱狂的なファンが多い。同じように、氏治にも身近に接してみなければわからない魅力があり、それが熱狂的な家臣領民の忠誠を勝ち取ることに繋がったのではないでしょうか。
どれほど弱くとも、敗戦を重ねても、何度でも立ち上がり、強大な敵に敢然と立ち向かっていく。そんな氏治の姿に、家臣や領民たちもほだされてしまったのかもしれません。
こうして見ると、「何度も敗けること」と「弱いこと」というのは、実はイコールではないのかもしれない、そんな気がしてきます。戦場における氏治の弱さは、人望という強さがなければ、人に知られることさえなかったでしょう。
戦って敗けることは、戦場に出なければできないのです。
猫と氏治
さて、父祖伝来の所領を秀吉に取り上げられてしまった氏治は、その後の人生をどう生きたのでしょう。
小田原攻めの翌年、氏治は会津に滞在中の秀吉のもとを訪ね、詫びを入れています。秀吉は旧領を返してやることこそしませんでしたが、詫びを受け入れ、徳川家康の次男で秀吉の養子となっていた結城秀康の客分として、三百石を与えます。秀康はこの時期、氏治と干戈を交えた結城政勝の子・晴朝の養子になっていて、その側室は氏治の娘の一人でした。
この時、氏治はすでに六十一歳。秀吉としても、三百石程度なら与えても害は無いと考えたのでしょう。あるいは彼も、氏治の不思議な魅力に惹かれたのかもしれません。
その後、秀康は関ヶ原の戦いの恩賞として越前六十八万石に加増、移封されます。氏治も息子たちとともにこれに従い、住み慣れた関東から越前へと移りました。
関ヶ原の戦いから約一年後、氏治は没します。享年七十一。戦場で幾度も死線を越えた末の、畳の上での大往生でした。
戦の強さという物差しで測れば、氏治は、武将としては落第でしょう。しかし、人を測る物差しは一つではありません。合戦に敗け続け、累代の領地を失っても、苛酷な戦国乱世を生き残ることに成功した氏治は、勝者であると言うこともできそうです。もっとも、氏治本人が畳の上で死ぬことを喜んだかどうかは、本人にしかわからないことですが。
ところで、氏治の肖像画を見たことが無い方は、ぜひ一度インターネットなどで検索してみてください。
畳の上に座る氏治の傍らに、一匹の猫が丸まって眠っています。
なぜ、こんなところに猫が? いつも近くにいるので絵師が気を利かせて入れたのか?それとも氏治が、「僕の肖像画描くならこの子も入れて!」とねじ込んだのか?
疑問は尽きませんが、この猫の穏やかな寝顔からは、氏治の不思議な魅力の一端が垣間見えるような気がします。