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わたしたちを支えているのは、出来事として残るような大きなものではない【第11回 】「ていねいな暮らし」の先にあるもの

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かなしみが深くからだに積もるゆゑ編んでゆかんか女の指は

 百円ショップにだって売っている靴下を、何週間もかけて編む。わざわざ食卓に花を飾り、変化を楽しみながら毎日水を取り替える。すぐに無料でメッセージを送れるのに、万年筆で一文字ずつ手紙を書く。売ったものを買う方がはるかに簡単で上手に決まっているのに、自分でケーキを焼く。

 しばしばこういうことは「ていねいな暮らし」と言われる。「ていねい」には、「注意深く心がゆきとどくこと」という意味があるが、「ていねいな暮らし」の中の「ていねい」には、そのライフスタイルがある方向に形式化されていることへの揶揄が含まれているように感じる。では上に挙げたようなことはわたしにとって何なのかというと、それは「しんけんな暮らし」なのだ。
 ただ一本の糸だけで編み上げる靴下は、何度作っても魔法のようだと思う。それが自分の手で作れるということは、自由でとてもうれしいことだ。万年筆で手紙を書く速度は、自然と思考の流れがゆるやかになる。全てが効率とスピード重視のこの世の中にあって、それは必要不可欠な速度だと感じている。自分で焼くケーキは、化学変化のようで楽しい。今日は少しここを変えてみたらこんな焼き上がりになった、と実験しているような心持ちになる。暮らしの中に驚きと発見と楽しさを見出すこと。手を動かすことであらゆる感情を消化すること。これは揶揄含みの「ていねい」というなまぬるいものではなくて、生きていることそのものの「しんけん」さに満ちている。
 仕事を次々にこなし、プロジェクトを成功させ、華々しく見える人がいる。その人は社会の役に立っているように見える。対して自分を振り返ってみると、小さなことでくよくよし、大した仕事をやり遂げているわけでもなくて、とても地味でみすぼらしく見える。こういう時に、「成熟」について考えてみるとどうだろうか。

 「物事が最も充実した時期に達すること」。わたししか生きることのできないわたしの物語。その物語が「最も充実した時期に達する」時、どんな場面になるだろうか。わたし自身はそこに「十分に書くこと」をまずは描き、そしてその両輪の一つとして「自分の暮らしを生きること」を同じくらい描きたい。
 向田邦子がエッセイの中で、自分の父親が亡くなった翌朝にいつもと同じように朝刊が配達されて驚いた、と書いていた。飛び上がるほどうれしいこと、いつまでもくよくよ考えてしまう失敗、泣いて、泣いて、泣いてまた泣いてしまうほどのかなしみ。そんな時にだって暮らしは続き、わたしたちご飯を食べ、眠り、そしてまた朝を迎える。わたしたちを支えているのは、出来事として残るような大きなものではなくて、日々のなんということのない営みそのものなのだ。

わが影のよぎらんとする庭のすみ干されし柿の色はふかまる

 庭に干した柿は、明るいオレンジ色から日を追うほどに深い色に変化していった。表面が乾いてきたら、次には全体が柔らかくなってくる。一日用事で外出して帰ってきた夕方、庭に出たついでに干されている一つをとって食べてみた。表面は少しの硬さを残しながら、内側はとろりとしたそれはおいしい干し柿だった。干し柿の甘味が疲れた心身に沁みていき、体の中心に小さなあかりが灯ったようだった。元気が湧いてきて、わたしはその後ご飯の支度をした。

 次々と受信トレイにたまるテキストメッセージの同じフォントの文字。SNSをひらけばいつでも溢れる誰が誰に向けているのかわからない短い言葉。ひと月先、ふた月先、そして三月先までどんどん埋まっていってしまう予定表。そういう世界をどうしたって生きている。それはわたしの生きる速度と足並みを揃えてはくれず、わたしの心身を置いてきぼりにしていつも先を走っているようだ。

わが生きるこの物語 書け、歩け、考へ、思ひ、手をうごかせよ

 その世界の中にありながらも、わたしの「最も充実した時期」を生きるために、わたしは立ち止まり、考え、そして自分の速度で歩きたい。だからわたしは柿を干し、庭に実った柚子やレモンで料理を作り、手紙を書き、編み物をする。
 柿を干したのがあまりに楽しかったので、その横で大根も干してみた。皮をつけたままで厚めの半月に切り、中程に切り込みを入れてシュロの葉を通して干す。五日ほど干したあと、油揚げと炒め煮にしたらとてもおいしかった。「へえ、これ一度干してから作ったの?おいしくなるんだね」という家族の声をうれしく聞く。人生が深まるにつれて増えていくうれしいこと、幸福なこと、そしてかなしいこと。それらを抱えながら、わたしはどんな物語を生きようか。わたしはこれから一番充実した季節を生きるのだ。

 

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*次回更新は、2月16日(月)です。

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新刊紹介

齋藤美衣

1976年広島県生まれ。急性骨髄性白血病で入院中の14歳の時に読んだ、俵万智の『サラダ記念日』がきっかけとなり短歌を作り始める。著書に、『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024年/医学書院)、第一歌集『世界を信じる』(2024年/典々堂)がある。

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