2026.1.19
わたしたちを支えているのは、出来事として残るような大きなものではない【第11回 】「ていねいな暮らし」の先にあるもの
日々を過ごすなか、また、過ぎた時間のなかに、惑い途方にくれること、悔恨、屈託、解放されたこと…暮らしの断片と陰影を、歌に込め文に紡ぐ短歌エッセイです。
バナーイラスト/鈴木千佳子 本文写真/著者提供
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ゆふぐれの庭にあかりの灯るごと干されし柿のかすか揺れたり

初めて干し柿を作った。高知に住む友が「渋柿をもらったのだけれど、美衣さん干し柿作る?」と聞いてくれて、20個ほど送ってくれたのだ。ありがたいことに、柿を吊るすためのシュロの葉も添えてくれていた。
まずは柿の皮を剥く。家事をすっかり終えた食卓にざるとボウルを用意して、ペティナイフをリズミカルに動かす。干し柿作りは大変なのではないかと少々不安だったのだけれど、20個ほどの柿はすぐに剥き終わり、あとはシュロの葉を結びつけて吊るすだけなのだった。友によると、一週間ほど干して柔らかくなってきたら、毎日手で揉むのだという。緑のシュロの葉にあたたかなオレンジ色の柿がぶら下がっている光景は、見ているだけで心満たされる。
これをわたしの手が作ったのだ、わたしがこしらえた干し柿だと思うとちょっと誇らしくさえなった。庭に出て柿が干されているのを見るたびにうれしくなる。どうなったかな、柿は無事かなと庭に出るたびにそばまで行って様子を見る。まるで我が子のようなのだった。
干し柿を作ってみて、わたしは「これからはもっとこういうことをする時間を持ちたい」と思った。「こういうこと」とは、生活にどうしても必要な家事労働ではなく、手を動かして何かを作ること。手を動かすこと、その時間から何かを生み出すことは、わたしにとってとても豊かで必要なことに思えた。逆に、どうしても必要なことだけを最低限やっていたら、わたしの暮らしは先細っていくように感じられた。
飛ぶ夢をまだときどきは見る 夏は過ぎ気づけば生(せい)の秋にをりたり
先日、誕生日を迎えた。49歳になった。自分でもびっくりしてしまう。若い頃は自分がそんな年齢になるなんて想像もつかなかった。わたしは10代で生死に関わるような大病をしたせいもあって、大人になった自分の時間が想像できなかった。ましてや中年、老年なんてありえないように感じていたのだ。そんな感じだからか、ぼんやりしているうちに数字だけ勝手に大きくなってしまったような気がしてしまう。
子どもの頃わたしの目に映っていた大人はこんなふうではなかった。なんでもわかって、間違ったことなんてすることがなくて、迷いないように見えた。大人になるまでには膨大な時間があって、きっと誰でもそのようになれるのだと思っていた。なのに、まるで違って驚いてしまう。十分に大人の年齢になったというのに、知らないことだらけで、しょっちゅう間違えてしまい、迷ってばかりだ。これはわたしだけなのかと思ったら、周囲の同年代の方に尋ねるとみんな深く頷く。
渋柿とシュロを送ってくれた友が、「誕生日の願い事はある?」と尋ねてくれた。わたしは思いつくままいくつも願い事を口にしたが、最後の一つに「成熟すること」と言った。自分でも意外だった。どうにも大人に近づけないわたしが最も遠く感じていたのが「成熟」という言葉だったからだ。「成熟」という言葉からは、かつて子どもだったわたしが大人に抱いていたイメージが重なる。間違いのない、揺るぎない、配慮に溢れたそんな立派な存在。
けれどわたしがその時口にした「成熟」とは、それとは少し違っていた。わたしは友にこう言った。「その人が最もその人らしく時間やエネルギーを使って生きること、それがわたしは成熟なのだと思う」。その時、ふと気になって「成熟」という言葉を広辞苑で引いてみた。広辞苑には二つの意味が書かれていた。一つ目は、「穀物や果物などが十分に実ること。また、人間の体や心が十分に成育すること」。そして二つ目は、「物事が最も充実した時期に達すること」。わたしはハッとした。そうか、成熟とは分別がつくことでも間違いがないことでもなくて、「物事が最も充実した時期に達すること」なのか。そう考えると成熟っていい言葉だなあと思えた。
わたしがわたしの物語を生きるのに、これから最も充実した時期に達するのだと思うと、励まされるようにも感じた。40代、50代と歳を重ねていく中で、自分自身をどう充実させるのか、どんな物語を選び取っていくのかがそれぞれの人の大きな、大切な仕事だろう。そして成熟と対になる未熟という言葉からも、これまでわたしが後ろめたい気持ちを抱いていた何かが不足している状態というのではない、「充実した時期に向かっていること」が連なって見えてくるようだ。
わたしの充実を考えた時、そこには社会の評価軸と関わることと関わらないことの両方が必要なように思える。書くことを仕事にしているわたしにとって、書くこと、そして書いたものを読んでもらうことはとても大事な軸だ。それは一人ではできないことで、自分が書いたものを読んでもらって初めて達成される。若い頃は、そういう社会から評価される部分だけでいいと思っていたかもしれない。いや、それ以外を思いつかず、ほかに思い至る時間と余裕がなかったかもしれない。だがそれだけでは足りないと今のわたしは思う。誰のためでもなく時間と力を使うこと。頭だけではなくて手を使うこと。それによって形あるものができること。それが暮らしを豊かにすること。これからのわたしの時間にはそういうことがとても要るように思えた。

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