2025.11.17
生き延びるためには「強さ」が必要だと、いつの間にか思い込んでいた【第9回 家族とテーブルを囲む】
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強くただしくおなりなさいとささやかれ少女は欅になつてしまつた
生き延びるためには「強さ」がどうしたって必要だと、いつの間にか思い込んでいた。そこには「弱さ」が入り込む余地がなかった。その世界の中で、「弱さ」はそれがあっては生きていけない致命的なものだったのだろうと思う。わたしは自分の「弱さ」をないこととして振る舞ったと思う。いや、そもそも「弱さ」はあるはずのないものだった。子どもの頃からそうだったから、それは息を吸って吐くほどの自然なこととしてやったのだろうと思う。

結婚して家族を持ったとき、そこで作ろうとしたのはそういう「強い」家庭だった。それがいいと思ったわけではない。それを選ぼうと思ったのではない。それしかありようを知らなかったからだ。わたしは「強く正しく」あろうとした。家族の象徴である大きなテーブルに集う家族のあるべき姿は、「強く正しい」ものだった。
わたしはあらゆることで「強く正しく」しようとした。家族は仲良く、そして建設的な会話を求め、そのテーブルにのせる料理は、健康的で手間暇をかけた手作りのものだった。だがそんなこと早晩うまくいかなくなるに決まっている。家族との間に軋みが生じ、わたし自身も疲れ切ってしまった。わたしはちゃんとできない自分を責めた。いろんなことの均衡が崩れ、家庭はバランスを欠き、わたしは具合を悪くした。
「もしかして、自分が考えてきた家族のあり方に無理があったのではないか」と思ったのは、そんなに前のことではない。わたしはたぶん強く正しくあり続けることができなかったのだ。両親のように「強く正しい」家庭を作り上げる力がわたしにはなかった。でもわたしは、それ以外の家庭のあり方を知らなかったから途方に暮れた。「強く正しい」家庭以外なんて果たしてあるんだろうか。
「家庭のあり方」みたいな大仰なものをまだわたしは考えていたのだ。目的や、効率的にそこに到達すること。そうだ、そこには形の違う強さや正しさがあった。そこからわたしは抜け出せなかった。家庭はそんな会社みたいなものではないのだ、と体感したのはごく最近だ。わたしは自分がこうしなければならないと思い込んでいたものをおそるおそる変えていった。すごくつまらなくて、わざわざ書くと笑ってしまうのだけれど、ある年クリスマスケーキを手作りするのではなくて買ってみた。するとどうだろう、ものすごく楽なのだ(当たり前だ)。
それからこれまで「当然こうあるべきだよね」と思って疑いも持たなかったことを、少しずつ変えていった。昆布と鰹節でとっていた出汁を、煮干しの水出しにした。家族は朝昼晩全員が揃ってごはんを一緒に食べなければならないと思っていたのが、一緒に食べられるときにそうすればよしとした。夫となんでも話し合わなければならないと考えていたのを、話したいことだけ話したいタイミングに話せばいいと考えるようになった。こうやってわたしにとっての家庭は、きちんとした理想を体現したものではなくて、形のよくわからないいい加減なものに変化していった。
組織として形が定まってそれが効率的に正しく機能するとしたら、それは家庭ではなくて会社だ。そんなごく普通のことに、わたしはそれまでちっとも気づいていなかった。今のわたしの家庭のありかたはいい加減だ。でもそれが大切なのだと思う。こうあるべき、こうなっていなければならない、これが普通だ。そんなものがどこにでも持ち込まれてしまったら、わたしたちはいったいどこで一息つけばいいんだろう。

おとといの夕方わたしはちょっと疲れて、自宅の最寄り駅に着いた。冷蔵庫の中身のお肉や野菜を頭に浮かべて、これくらいの工程で夕ごはんを作れるなと算段したけれど、思い直して駅前の崎陽軒でお弁当を買って帰った。子どもたちはそれをすごく喜んで、シウマイにていねいに醤油を垂らしてあっという間に平らげた。空になったお弁当箱をそのままに、次男は夕刊をその横に広げじっくり読んでいる。三男はグラスに麦茶を注ぎ、ごくりと一口飲んでから冷蔵庫からアロエヨーグルトを出してきて食べ始めた。夫は駅前のコンビニが閉店した話をしている。
家族とは出会ひと別れをくりかへす 「おはよう」 「いってらっしゃい」 「ただいま」
たまにわたしは大きな無垢のテーブルに蜜蝋のワックスをかける。ワックスは爽やかな匂いがする。その匂いが好きで、ゆっくりと時間をかけて、大きなテーブルにワックスを塗り広げていく。ワックスをかけ終わったテーブルは、心なしか前よりも気持ちよさそうに見える。わたしはその真ん中に菊を活けた花瓶を置いた。開いた窓から、まだ少し湿り気のある、でも秋の匂いのする風が吹き込んでくる。大きなテーブルの端っこで、昨日取れてしまったシャツのボタンを付ける。白い木綿糸をわたしはゆるやかに動かす。
今は4人で囲んでいるこのテーブルをいつしか3人、二人で囲み、いつかは一人で向かう日が来るかもしれない。このテーブルで交わされる会話、みんなで囲むごはん、それぞれが持ち寄ってやることがら。それは強くも正しくもない、なんてことないことかもしれない。吹けば飛ぶような弱々しいささいなこと。そんなどうでもいいことが人のいちばんの養分になるんじゃないか。そんな小さな断片に支えられながら日々を重ね、わたしたちは他者と生きていけるのではないだろうか。

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*次回更新は、12月15日(月)です。
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