よみタイ

社会に自分の居場所がないなんて耐えられなかった【第8回】ささやかだけどたしかな毎日

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えいゑんに数字を打ち込む宵闇のどこかに浮かぶクラウドに向けて

「わたしは仕事ができない」と初めてわかってしまったのは大学生の時だった。
 大学に入って半年ほどした頃、わたしはコンビニのアルバイトを始めた。アルバイトとしてコンビニは手頃だろうと思っていた。どこにでもあるし、高校生や主婦やリタイアした年配の人まで幅広く働いている。大学生のわたしでもまあできるだろうと思っていた。ところが、だ。見るのとやるのとでは全く違う。店頭の掃除、おでんや肉まん類の仕込み、揚げ物の調理、宅配便の受付、公共料金の支払い、タバコの販売、商品の補充や回収、そしてもちろんレジ業務。こんなに一人でたくさんのことをやるなんて思っていなかった。それ以上に、わたしは自分が同時に複数のことをやるのにまるで向いていないとそれまでちっとも知らなかった。

 同じ時期にバイトに入った同じ大学の同級生は、すっかり慣れててきぱきと立ち働いているというのに、わたしはいつも頭を混乱させながら、へまばかりやっていた。そんな状況に、自分でもびっくりした。「仕事ができるためには勉強とは違う能力が必要ですよ」とは、それまで誰も言わなかったからだ。それまで言われてきたのは、仕事とは勉強の延長線上にあって、勉強ができてよい大学に入れば自然と職業選択の幅が広がるというものだった。
 それはある一部において正しいのかもしれなかったが、わたしにはあまり役に立たなかった。勉強はやればそこそこはできるようになったけれど、仕事は全然だめだった。まず毎日同じ場所に通うということがものすごく負担だった。でもみんな我慢して通っているのだと思って、それがだめだと思うこと自体がわがままなのではないかと思っていた。データ入力をすれば間違いだらけで、数字を扱えば、数字はわたしの意思に反して勝手に変わってしまう(もちろんそんな訳はない。わたしが何かミスをしているのだが、そうは思えないので数字の反逆のように見えてしまうのだ)。電話で相手の話を聞きながらメモを取ることもできなかった。同時に二つのことができないからだ。

ゆめをみる夜もなかりきわたくしを置いてはたらく働くからだ

 コンビニのアルバイトもだめ、会社勤めもだめ、自分で作った会社もだめ。わたしは自分が社会不適合者のように感じた。社会に自分の居場所がないように思える。できないことで困っているのならば、それをできるようになることしか道はないのではないかと思った。会計の勉強をして、数字を自分で扱えるように努力した。うまくできないことは、最小タスクに分解して日々のやるべきことをタスクシュートするようにした。仕事で必要だったので、英語の勉強もした。オンラインコミュニティにも入ってビジネスの人脈とヒントを得ようとした。

 わたしにとって仕事とは、出来うる限りの最大限の努力と辛抱でやっと成り立っているものだったのだ。その危うい均衡はまもなく崩れた。もう自分でバランスを保つことが困難になってしまった末についた診断が適応障害だったわけだ。だがそれしかやり方を知らないわたしには、環境を調整することはできなかった。仕事がゼロになるのは、経済的な不安も大きかったが、それ以上に自分が「何一つ役に立たない」存在だと烙印を押されてしまうように感じて、とてもつらかった。
この頃のわたしは、寝ている時に無意識に歯を食いしばって苦しい表情をしていたようで、朝起きると、眉間には深い2本の縦皺が刻まれていた。クリームを塗っても、マッサージをしてもこの皺は消えなくて、年齢を重ねているのだから仕方がないのかと半ば諦めていた。その皺は、わたしが考えている仕事というものを象徴しているようだった。

 書く仕事をするようになって半年ほど経った頃だっただろうか。末の子どもが「お母さんは仕事をしていない」と言った。毎日家にいて、なんだかちょっと楽しそうにキーボードを叩いているか、ソファで本を読んでいるか、たまに打ち合わせに出かけていくか。たまの仕事の打ち合わせにも、悲愴感なくいそいそと楽しげに出かけていく様子を見て、喜んでのんびりやっている今の状態が仕事だと思えないようなのだ。かつてわたしが感じていたように、彼にとっても仕事というのは苦しいものだとインプットされているらしい。

 苦しさの末に手に入れられる成功や喜びがある、そのために我慢をしなくてはいけないと思い込んできた。時には多少の辛抱が何かを生むこともあるとは思うけれど、かつてのわたしはあまりにそればかりだったのだと思う。毎日忙しく立ち回って、外出して、出張していた頃に比べて今の生活はあまりに静かだ。人と全然会わない日もよくあるし、散歩以外ずっと家にこもっている日はざらだ。でも気がつくと、眉間にくっきり刻まれていた2本の皺は消えていた。生活は皺まで変えてしまうのだ。

このいまをたしかに生きてゐることを 花片の小(ち)さきを卓にのせたり

 駅までの道を共に歩いた葛の花びらは、手のひらの体温で温かくなっていた。わたしは家に帰ってから、食卓に花びらをそっと乗せた。ささやかだけれど、それはわたしの書斎に彩りと生命感を与えてくれた。思いがけず、40代も終盤になってから社会の片隅にささやかな居場所を見つけた。まるでこの葛の花びらのようだ。何歳になっても思いがけないことが起こるかもしれない。何歳になってもそれまでの価値観を変化させることができる。たった数片の花びらは、明日にはしおれてしまうかもしれない。道端の花びらを多くの人は目に留めず通り過ぎていくだろうが、それでもそこに花びらがあったこと、それを拾いあげたわたしがいたことはたしかなのだ。

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*次回更新は、11月17日(月)です。

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齋藤美衣

1976年広島県生まれ。急性骨髄性白血病で入院中の14歳の時に読んだ、俵万智の『サラダ記念日』がきっかけとなり短歌を作り始める。著書に、『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024年/医学書院)、第一歌集『世界を信じる』(2024年/典々堂)がある。

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