2025.7.21
はにかんだ笑顔の奥に隠された祖父のさみしさと困難と【第5回 シベリア凍土のキャベツとポケットのミルキー】
日々を過ごすなか、また、過ぎた時間のなかに、惑い途方にくれること、悔恨、屈託、解放されたこと…暮らしの断片と陰影を、歌に込め文に紡ぐ短歌エッセイです。
バナーイラスト/鈴木千佳子 本文写真/著者提供
抱へきれぬさみしさゆゑか泣きさうな笑顔で写真に収まる祖父よ

思い出の祖父は、いつも少し困ったようにはにかみながら笑っていた。
祖父の名は孝さんという。大正14年7月6日のちに満州が建国される中国東北部で生まれた。中国で終戦を迎え、シベリアに抑留された。少しロシア語ができたという。帰国してからは結婚して堅い会社に長く勤めた。そう書くと、わたしは少し不思議な気持ちがする。わたしの知っている祖父は、宮崎県の延岡市に住んでいたから、「延岡のおじいちゃん」だった。子どもの頃は、「のべおか」が「延岡」だと知らなくて、「のびょーか」だと思っていた。だからわたしにとっての祖父は、「のびょーかのおじいちゃん」なのだった。
祖父は無口だった。わたしたち孫に接するとき、どうしたらよいのかわからなかったのだろうと思う。ずっとちょっと困ったような泣きそうに見える不思議な笑顔だった。わたしたち一家が帰省するときはいつも車で、朝出発して着くのはいつも夕方になった。その日の朝から多分祖父は今か今かと待っていてくれたのだろう。車が家の前に着くとすぐに外に出てきて、わたしたちを迎えてくれた。そして困ったようなあの笑顔でお菓子をくれる。お菓子はいつも決まってポッキーだった。それをひとりに一箱渡してくれる。わたしはいつもとてもうれしかった。3人兄弟で普段はお菓子はひとり一つではなく、3人で一つだったから、まるまる一箱が自分のものというのはかなりの豪華さだった。
祖父は笑っているだけで、わたしたち孫とだけでなく、父や母ともそんなに話さなかった。脳梗塞で倒れた後麻痺が残ったから言葉を発しにくい、ということもあっただろう。いつもはにかんだ笑いを浮かべて、「みえちゃん、これ」と言って赤いポッキーの箱を差し出した。わたしはうれしくて、でもどこか恥ずかしくもあって困ってしまう。もごもご口の中でありがとうという言葉を発音して、ポッキーを受け取った。祖父はあのポッキーを自分で買いに行っていたのだろうか。それとも祖母に頼んで買ってきてもらっていたのだろうか。
思い返すとそれほどの年齢でもなかったのに、当時のわたしから祖父はかなりのお祖父さんに見えていた。ものすごく昔の人に思えた。わたしはどういう言葉を祖父とかわせばいいのかわからなかった。
食べるとは未来をおもふこと祖父がわがてのひらにくれしミルキー
ときにはポッキーでなく、ポケットの中から飴を取り出してくれることもあった。祖父は濃厚な飴が好きだったのだろうか。それは決まってミルキーやバター飴だった。動きやすかったからいつも穿いていたのだろう、ジャージのような生地のやわらかいズボンのポケットに手を入れて、中身を取り出す。クリップや小銭、消しゴムなんかが交じった中から飴を取り出して、わたしのてのひらに載せてくれるのだった。わたしは初めて食べたバター飴が、けもの臭く感じてしまって苦手だった。でも、あまり好きでないと言えなかった。雑多なものの中から選り分けてくれる飴が、ちょっと汚いようにも感じてしまって、そう思った自分を嫌な子どもだなと思った。
帰省していないとき、祖父は毎日わたしに電話をかけてきた。弟や妹が電話に出ても、「みえちゃん、いる?」と聞くのだった。今思えばわたしは祖父に愛されていたのだなと思うのだけれど、思春期に差し掛かる頃のわたしにとってそれはめんどくさく、うっとうしいものだった。だからときにはちょっと邪険な口調で「何?」と言って電話口に出た。祖父は電話でもいつも無口だった。少しの沈黙の後「今夜の夕ご飯はなんだった?」と聞く。いつも決まってそうだった。なんでそんなに夕ご飯の献立に興味があるんだろうと思いながらわたしは、「肉じゃがとおひたしだよ」とか「今日はカレー」とか答えた。祖父は献立を知りたかった、というよりわたしと話したかったのだ。ただのコミュニケーションツールとして献立があったのだ。今ならわかる。
それなのに、わたしはいつも不満だった。何をしていても、毎晩祖父の電話がかかってくると電話口に出て弾まない会話をしなくてはいけないこと。他の兄弟ではなくわたしばかりが話し相手になっていること。会話がいつもワンパターンなこと。そんなことがみんな煩わしく、電話が早く終わらないかなとばかり思っていた。