2025.6.16
子育ても仕事もうまくいかないとき、一番心待ちにしていたのは 【第4回 台所で夫にどなった日】
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最近でも外を歩いていて、小さな子どもの手を引いた女の人や、通勤バッグを肩から下げて薄暗くなった道をコツコツと歩いている女の人を見ると、もしかしてこの人も世界に怒鳴りたいのかもしれないと思うことがある。あの頃のぎりぎりのわたしだって、外の人から見たらちゃんとやれているふつうの女の人に見えていたかもしれない。うまく食べることができなくて、お酒に体を温めてもらってやっと一日を終えている人だとは誰にも気づかれなかったかもしれない。そう思うと、そばを歩いている、見知らぬ女の人の背中をさすってあげたくなることがある。かつてのわたしのような人はきっといるだろう。スーパーのレジに並んでいるかもしれないし、電車の吊革につかまっているかもしれないし、着替えやオムツでぱんぱんになった通園バッグをかごに乗せて自転車を漕いでいるかもしれない。
いまのわたしは台所でお水を飲む。ワインではなく、ただのお水を飲む。それはわたしの体に火を灯すように温めはしない。体の輪郭を失くしていくように、どんどん体が軽くなっていくようには感じさせない。でもわたしをここにとどめてくれる。わたしは長い時間をかけて、すこしずつ食べることを取り戻していっている。飲むことを取り戻している。わたしであることを取り戻している。
わたしのそばでワインを飲みながら、飼っている犬の話をしていた夫がふいに「そうだ、冷蔵庫のささみで焼き鳥を作ろうかな」と言って、ささみの入ったパックを取り出した。四本のささみをそれぞれ三等分に切り分けて、下味をつけて、手早く竹串に通す。「コツは最後にすこしごま油を絡めることなんだ」と言って、ささみにごま油を垂らしてグリルで焼いた。そして焼き上がったばかりの焼き鳥を「食べる?」と言って差し出した。わたしは「うん」と言って、一串もらって、立ったままささみの一切れを口に入れた。ささみはふっくらと味よく焼けていた。その一口を噛み締めながら、「わたしはいま他者を受け入れている」と強烈に感じた。
食べるということは、自分ではない異物を咀嚼し、受け入れ、消化し、未来の自分の命を作ることだ。その行為は、世界への信頼なくしてできない。わたしがかつて怒鳴っていた世界。かつて絶望していた世界。食べることを受け入れるということは、その世界に再びわたしの居場所を見つけようとしているということだ。わたしは焼き鳥を噛みながら、「うれしい」と思った。わたしがいまここにいること、わたしがいま他者と共にあること、わたしが他者を受け入れようとしていること、わたしが食べものを再びおいしいと思って口にしていること、これらがみな「うれしい」と感じた。以前、わたしには「うれしい」がなかった。「うれしい」も「さみしい」も「かなしい」も「楽しい」もなく、わたしはそれらを感じなくても平気なように、お酒を飲んでいた。お酒でわからなくして、それらをなかったことにして平気な顔をして過ごそうとしていた。
でもそんなこと長く続けられるものではない。心が動くこと、それは怖いことだ。わたしが無防備になることだから。心が動いたと人に告げること、それは恐ろしいことだ。わたしになど相手は心が動かなかったと言われるかもしれないから。無防備になり、傷つくかもしれないけれど、わたしはいますこしずつ心を動かし、心が動いたと人に告げながら、人と共にいる。
焼き鳥をわたしはゆっくり食べた。ささみは柔らかくしっとり焼けていた。出来上がったおかずを皿に盛り付けて、ごはんをよそう。ごはんは真っ白く湯気の中でかがやいている。手の上で豆腐を切る。豆腐にキムチを乗せて、塩を散らしてごま油をかけた。この台所でごはんを作るのは一体何度目だろうか。わたしは泣きながら怒鳴った夜のわたしをかわいそうだと思う。背中をさすってやりたくなる。
ごはんだよ、と声をかけて、わたしはテーブルにお箸を並べた。こうして誰かとごはんを食べるのは何度目だろう。こうして誰かとごはんを食べるのはあと何度あるのだろうか。一生の果てしなさと一生の短さを思う。わたしは台所の流しに置いていたグラスの水を飲み干して、席についた。
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*次回更新は、7月21日(月)です。
