2025.5.19
完璧な母、理想の母はどこにいる? 【第3回 キャベツを刻む手に連なるもの】
がんばったおかげだろうか。わたしはキャベツを百切りではなく千切りできるようになった。今では母のようにトトトトとリズムよくふんわりとキャベツを刻める。でもすべてが努力でできるようにはならなかった。わたしは事務的な作業がやはり不得意だし、電話の声を聞きながらメモを取ることはできない。忘れ物も多い。母のように仕事ができる人にはついぞなれなかった。わたしにとって母親という存在は、ずっとわたしの母だったし、いくら努力しても届かない象徴だった。わたしにとって母は強烈に母だったのだ。
つい去年のことだ。「わたしが忙しくて子どもたちにやってやれなかったことをあなたは楽々やっているように見えて、ずっとできなかった自分を責められているような気がして苦しかった」と母が言った。これには心底驚いた。わたしがあんなに苦しんでどれだけやってもとても追いつけないと思っていた母が、同じような思いをわたしに抱いていたのだった。母は続けて言った。「仕事をしながらあなたは、子どもたちにおやつを作ってあげたり、梅干しを手作りしたり、パンを焼いたり、そんなことわたしはしてあげられなかった」
わたしはあまりのことにびっくりして、口の中でもごもごと「そんなことないよ」とだけやっと言った。
このときを境に、わたしにとって母はかつての「強烈に強くて正しい母」ではなく、「ひとりの弱い普通の女性」になった。わたしは母の中にどうやっても届かない理想の母を見ていたのだが、一方で母も同じようにわたしの中に自分が届かない、至らないと思い続けている理想の母を見ていたのだった。その「理想の母」とは一体誰が作り出したものなのだろうか。わたしだろうか。母だろうか。
十代の頃に読んだパール・バックの『大地』を思い出す。貧しい農民の妻、阿蘭(アーラン)。スタインベックの『怒りの葡萄』のおっかあも、ガルシア=マルケス『百年の孤独』のウルスラもみんな強烈に母なのだった。彼女たちを見ていると、わたしの母と同様に生まれた時からちゃんと母になる準備ができているようにしか思えなかった。それに比べてわたしはどうだろう。いつまで経っても自分が母というものに到底届かないと思い続けてきた。その後ろめたさと申し訳なさと苦しさが、わたし一人のものではないとわかったとき、わたしはわたしの中にあると思っていた「母」の像が、わたし個人で作り上げたものではないのかもしれないと思った。社会が求める規範、像、範囲の中でわたしも母も知らず知らずのうちに、その外部から要請された「母」を自分自身の内側に投影してきたのではないだろうか。
かつて読んだ本に登場してきた女性たち。年代を経てふたたび読み返すと、わたしの視点が「子ども」や「娘」だけではなくなっていることに気が付く。かといってかつての視点が失われたわけではなく、わたしの内側をよくよく覗いてみると、マトリョーシカのようにいろんな年代のわたしが層のように存在しているのがわかる。小さな子どものわたし、少し大きくなったわたし、少女のわたし、娘のわたし、妻のわたし、母のわたし、女性としてのわたし、中年のわたし。年月はわたしをそのように変化させるというより、これまでのわたしを内包しながら、繭のようにあたらしいわたしがその上に形成されていくように感じる。
それはわたしだけではないのだった。阿蘭も、おっかあも、ウルスラも、そしてわたしの母も、街を行くちゃんとした母に見えているあの女性だってきっとそうなのだ。生きているということはいつも途上にあるということだ。いつだって変化し、ゆらぎ、動いている。完璧でりっぱに見えた母も、これまでのさまざまな年代の母を内側に持って今の年齢を生きているひとりの弱くて、不確かで、未完の人なのだ。それが腑に落ちた時、わたしはものすごく母を愛しいと思った。わたしを愛しいと思った。
鯵フライにはやっぱりこれだと思って、キャベツを千切りにする。午後の台所にはやわらかな陽が差している。キャベツの葉を一枚ずつそっと剥がして、芯を除いて重ねて刻む。口当たりよくなりますように、しゃっきりおいしくできますように、今日のごはんが幸せでありますように。わたしは今日、キャベツを刻みながら「百切りになってしまうのではないか」と思わなかった。わたしは母親であるけれど、母の子どもであり、娘であり、かつて少女だった。わたしは妻であるけれど、夫にとっての「美衣さん」であり、わたしである。わたしは「理想の母」などいるように見えるだけだ、と今は思える。もしかしたらこんなわたしですら、誰かから見たら「理想の母」に見えているかもしれない。母がわたしをそう見たように。わたしが母をそう見たように。
濡れた手に午後の日差しが当たる。わたしの手は、かつての母の手のように濡れて赤と白のまだらなのだった。そして、トトトトと上手にキャベツを刻んでいるのだった。これまで何十回、何百回とキャベツを刻んだ右手は考えなくとも自然に動いて、どんどんふんわりした千切りができあがっていった。それを見ているうちに、わたしの手がわたしの手なのか母の手なのかわからなくなってくる。あの頃の母は、今のわたしよりずっと若かった。どんなに不安だっただろうか、悩んだだろうか、さみしかっただろうか、苦しかっただろうか。そんな母のことを思う。
キャベツを刻むわたしの手は、いつの間にかわたしにつらなる多くの女の手に見えてくる。胸にあることを言葉にはしないで、彼女たちは黙って働いていただろう。働き者の手はとても器用にキャベツを刻んだり、ごはんをよそったり、子どもを抱いたり、洗濯物を畳んだだろう。言葉にはしない代わりに、彼女たちは台所で歌ったかもしれない。わたしは母がまだ赤ん坊だった妹をおぶって台所で歌いながら、キャベツを刻んでいた後ろ姿を思い出す。その後ろ姿にわたしは近づいて抱擁したくなる。わたしは抱擁するだろう。近いうちに母に会いに行って。不完全なひとりのわたしとして、不完全なひとりの母を。まだ間に合った。そして二人で台所に立とう。一緒にキャベツを刻もう。
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*次回更新は、6月16日(月)です。
