2025.4.21
今もまだ「お母さん」に慣れない 【第2回 「子育て」という言葉の立派さ】
日々を過ごすなか、また、過ぎた時間のなかに、惑い途方にくれること、悔恨、屈託、解放されたこと…暮らしの断片と陰影を、歌に込め文に紡ぐ短歌エッセイです。
バナーイラスト/鈴木千佳子 本文写真/著者提供
ごはんだけ作つてきたんだ 二十五年、いくつの星を産んだのだらう

22歳で長男を出産した。
妊娠はなんだかすごかった。わたしの意思と関係なく否応なく体が変化する。どんどん大きくなるお腹が怖かった。つわりがひどくて、自分ではない生きもののために反応している体が気味悪かった。臨月になってくると、どうしても出産のことを考えてしまう。街行く人を眺めていても、「この人の数だけ、出産があったのだなあ」と感心してしまう。「みんな生まれたあと育ててもらってこうして今歩いているのだ」と感動してしまう。みんなものすごい偉業を成し遂げている感じがした。自分がそれを同じようにできるとは、まるで思えないのだった。
出産については痛みのあまりベッドのフレームを捻じ曲げてしまった、とか、すいかを鼻の穴から出す感じだとか、いろんな人がいろんなことを言った。実際に自分の身に起こってみると、聞いていたどれとも違っていた。陣痛は痛いとか痛くないとかそういうことじゃない、なんだかよくわからない巨大なものに否応なく巻き込まれる感じがする。しかもこれがいつまで続くのか、あとどれくらいひどくなるのかあるいはならないのか誰も教えてくれない。「一時停止して、ちょっと休憩してから再生できないものか」と思った。もちろんそんなことはできない。陣痛の最中にだんだん気が遠くなる。痛みのあまり気が遠くなっているのか、真夜中だから眠くなっているのかよくわからない。あとで聞いたところによると、わたしの出産は胎盤と一緒に子宮が裏返って出てきてしまい、大出血を起こしてけっこう大変だったらしい。8時間だったので早い方でしたよ、と言われてもやはりそれはわたしにとっては誰の出産とも比べられない体験だった。
赤ん坊を産んで、わたしはほっとした。なんとかやり遂げた感じがしたのと、それと同時にわたしの体の中に他の者が入っていないのに安心したからだ。よくドラマで見るように、お腹に手を当てて「動いてる!」と妊婦さんがほほえむようなシーンは、わたしの感覚とは違っていた。「動いてる!」とは思うものの、それはまだ見ぬ赤ん坊に愛情を感じて幸せを感じる、というより、人体の構造の不可思議さに驚いているという感じだった。その不可思議なことが自分の体内で起こっていることに違和感があって、早く元通りにならないものかと思っていた。だが出産後も体は元通りというわけにはいかなかった。わたしの体はわたしに相談することなしに引き続き赤ん坊のために準備されて、おっぱいが小玉すいかくらいに大きくなって母乳があふれるほど出た。それほどは必要ないのに母乳はシャワーのように吹き出して、気をつけていても洋服が濡れてしまうほどだったので、わたしはそのことに喜びを感じるというよりただ困惑していた。
出産後、幼馴染のゆいちゃんのお母さんがお祝いに来てくれた。「赤ちゃん、すごくかわいいでしょう?」とわたしに言ったのを今でもよく覚えている。25年経っても時々この言葉を思い出してしまうのだけれど、けっこう衝撃だった。「体のどこもかしこもすごく小さいのだな」とか、「泣くとすぐに顔が真っ赤になるな。赤ん坊とはよく言ったものだ」、「見るたびにおむつが濡れていて、ものすごいおしっこの回数だな」とはしょっちゅう思っていたけれど、この赤ん坊を「すごくかわいい」と思っていただろうかと改めて考えたからだ。わたしは、わたしの意思と関係なく動く不思議な存在として子どものことを見ていたように思う。この言葉を聞いて、「かわいいってなんだろう?」とつくづく考え込んでしまった。
わが子はものすごくかわいいとみんな言う。それなのに、自分の赤ん坊をかわいいと思えていないかもしれないのは問題なのではないかと心配になった。わたしがかわいいと思えるものを想像してみる。庭のすずめ。うん、小さくてちょこまかしていて愛らしい。日向の猫。気持ちよさそうでかわいらしいと言えよう。友達がくれたくまのぬいぐるみ。ふかふかしていてこれはかわいいと言っていいと思う。そこまで考えて、もう一度赤ん坊を見てみる。まだ小さくて座布団一枚に体が収まるサイズの赤ん坊。両手をバンザイの形に上げて、手をぎゅっと握ったまま眠っている。時折うすいまぶたがぴくっと動く。うん、これはたぶん愛らしいと言っていいだろう。でも、そういうことだろうか。「すごくかわいいでしょう?」とはちょっと違うんじゃないか。
わたしは25年間、「すごくかわいい」ってなんだろうと思いながら、お母さんってなんだろうと思いながら日々を過ごしてきた。なんでもふつうは回数を重ねると慣れて上達するものだと思うけれど、わたしはお母さんと言われるものになってからもう25年も経つのに、3人も子どもを持ったのに、今もまだ「お母さん」に慣れない。だから「お母さん」という役割を求められる場面になると、自分はほんとうの「お母さん」でなくて、にせものなのにお母さんのふりをしているような後ろめたさを感じる。「お母さん」という言葉の中におのずと入っている、母性や愛情や献身をわたしはどれも十分に持ち得ていないように感じてしまう。そして「子育て」という言葉に内包される、ひとりの人間を心身ともに育てあげることなどできてこなかったように感じて、申し訳ない気持ちになったりする。
わたしには「子育て」という言葉は立派すぎて、気後れしてしまう。わたしは子育てなどできなかったと思ってしまう。では25年何をしてきたのかというと、ただごはんを作ってきたように思う。もちろんごはんを作るのがめんどうくさい日もあったし、作れなかったことだってあった。手抜きだってした。でもやっぱり今日もわたしはごはんを作っている。今夜は家族みんなの好きな豚バラ肉とじゃがいもとゆで卵の煮物と、白菜のおひたし、あかもくのスープだった。朝から豚バラ肉を3回も茹でこぼして脂抜きしてから、とろとろになるまで弱火で煮込んだ。おかわりあるよ、とか、卵は一人二つまでね、とか言いながら、わたしはやっぱり子どもを「すごくかわいい」と感じるのとはちょっと違う場所にいてごはんを作り続けてきたと思うのだ。
