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ずっとカーネーションがきらいだった【第1回 社会が要求する女というもの】

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 20代になって、30代になって、そして40代になった。わたし自身は変わっている感じはしなくても、わたしを包んでいる女という外見とその意味は変化している。わたしに備わっている「女であること」は、次第しだいに遠くなってきている。年上の女性たちが、「40代になると楽よ。女であることからやっと離れられるんだから」と言っていた意味がわかるような気がする。これまで晒されてきた性的な対象としての存在から解放されるということだから。だけれどわたしはなかなかすっきりしない。社会から要請される「愛される女」、「かわいい女」、「選ばれる女」である年代が終わったからといって、女であることをそう簡単に脱ぐことができるだろうか。さらに女であることを離れたとして、わたしに残ることって、なんだろう。
 わたしは3人の子どもを持った。みんな男の子だった。3人の子どもの性別を尋ねられて、3人とも男の子だと答える時、わたしはすでにうんざりしている。次に言われることが判で押したように同じで、たいくつだからだ。みんなこんなふうに言うのだ。気の毒そうに「それはすごく大変ですね」、そして「男の子3人のお母さんには見えませんね」。「大変」というのはわたしを慮ってだろうか。「男の子のお母さんに見えない」というのは、褒め言葉なのだろうか。つまり「男の子のお母さん」はものすごく大変で気の毒で、「男の子のお母さん」に見えることは不幸だというのか。だからなんだというのだ。みんな見当違いだと思ってしまう。子どもが男か女かでそんな簡単に分けられるのだろうか。そして男だから大変、女だから手がかからないなどというそんなステレオタイプの発言を、どうしてこんなに多くの人が無自覚にしてしまうのだろうかと不思議に思えてくる。
 わたしをこれまで通過してきたたくさんの言葉を思う。
「女らしく上品な話し方でいいね」
「仕方がないけど、また子どもが熱出したのか」
「料理が上手だから、美衣さんの子どもになりたい」
「男の子が3人いてこんなに部屋をきれいにしていてえらいね」
「男の言葉はそのくらいがまんしなよ」
「セクハラって目くじら立てるほどじゃないよね」
「今がいちばんいい時よ」
 

 いつからか女にされていて、そしていつからか(おそらくそれは生殖活動の時期が終わる頃だ)女でないものにされているのだろうか。だとしたらわたしは一体誰なのだろう。そして一体わたしは誰だったのだろうか。女であることが嫌だったわけではない。やさしい話し方はきらいではない。料理も好きだ。部屋は自分の精神安定のためにきれいにしておきたい。家族のケアをすることをうれしいと感じる時もある。でも、それらは女であることともう少し離れてもいいのではないかと思う。わたしはわたしであって、それはプールや海や湖のようなものなんじゃないだろうか。その水面に女であることや、お母さんであることや、夫の妻であることがボールみたいにぷかぷか浮かんでいるんじゃないかと想像する。ボールは時折遠くに流れて行ったり、少し沈んで見えなくなったりする。それくらいの感じで、自分が何かであることと付き合えたらちょうどよいのではないか。時に母であるわたしや、妻であるわたしのボールをちょっと横に置いておく。また、時にはそれを真ん中にそっと浮かべる。「ほんとうのわたし」があるとは思わない。確固とした自分がどこかにいるのではない。いろんなわたしが合わさって、わたしがいる。そしてそのわたしはいつも揺らいで、変容して、とどまらない。女であるわたしも、娘であるわたしも、母であるわたしも、妻であるわたしも。
 桃の花は、梅よりも華やかさがあって、そしてかわいらしい。ぽっちりと色のある花が枝に点々と飛ぶようについている様は、これから新しい季節が来るのだという予感を伝える。わたしはガラスの水差しに桃の枝を生ける。うちには成長を祝われる女の子はいないけれど三月の節句の頃には、わたしはわたしの中にいる女の子のため、そして世界の女の子たちのため、そしてただそれが好きな自分の子どもたちのためにおちらしを作る。ささがきしたごぼう、干し椎茸、にんじん、干瓢、油揚げを少し甘めに炊いて煮含めておく。菜の花をさっと茹でて水に取る。きゅっと絞って切っておく。錦糸卵はたっぷり作る。油を馴染ませたフライパンに甘めに味付けした卵液を流して、弱火で焼き上げる。よく切れる包丁で卵をほそく刻む。少し硬めに炊き上げたごはんに白梅酢をまわしかけて、しゃもじで切るように混ぜながらうちわであおいで冷ます。具を混ぜると寿司飯がわずかに茶色味を帯びる。このごはんを塗りのお重に詰めたら、錦糸卵と菜の花、そしてとても鮮やかな桃色の桜でんぶを散らす。桃の枝を飾った食卓に、お重に入ったおちらしがあると、それはもう何かを待っている気配に満ち満ちたあかるく、幸福な景色にしか見えない。
 この頃は「女だから」という言動に遭うことが少なくなった。でもそれは女だから特別な目に遭うことがこの社会でなくなったこととは違う。わたしはひとりの女として、そしてその前にひとりの人として、この世界に桃の花を飾る。わたしの声も、あなたの声もちゃんと届くように。わたしもあなたもちゃんと世界に祝福されるために。

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*次回更新は、4月21日(月)です。

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齋藤美衣

1976年広島県生まれ。急性骨髄性白血病で入院中の14歳の時に読んだ、俵万智の『サラダ記念日』がきっかけとなり短歌を作り始める。著書に、『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024年/医学書院)、第一歌集『世界を信じる』(2024年/典々堂)がある。

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