2025.2.15
「あんないい加減な代物が……」現代ラーメン批評を取り巻く〝偏狭さ〟
日本の「おいしさ」の地域差に迫る連載。
前回からの続き、ラーメン編5回目です。
ラーメンの「おいしさ」は、どんどん先鋭化していますが……稲田さんはそこに別の視点を投げかけます。
辺境から見たラーメン⑤ ラーメン世界の多様性とは
話はもう一度鹿児島に戻ります。
15年ほど前だったでしょうか、久しぶりに鹿児島に帰省しました。実家に荷物を置いていそいそと〔こむらさき〕に出かけようとしていた僕に、母親から驚くべき情報がもたらされました。数年前に新しいラーメン屋さんができて、そこがおいしいと大評判だ、というのです。観光客の多くがそっちに行ってしまうようになっただけでなく、地元民からの人気も上々とのこと。
母親も含めて稲田家親族一同は昔から、鹿児島のラーメンはどこもおいしいけどこむらさきだけは別格、という「こむらさき原理主義教団」だったのですが、その信者たちもその新店にだけは一目置いているとのことで、そうと聞けば行かないわけにもいきません。
……しかし、結論から言うと、僕自身はその店に二度と行くことはないし、誰かに薦めることもないだろうな、と思うに至りました。おいしくなかったわけではありません。むしろすごくおいしかったんです。
しかしそのおいしさは、別に名古屋でも東京でも出会うことができる、というのが僕の率直な感想でした。それはややもすれば「ちょっと前に一世を風靡したタイプのとんこつ醤油ラーメン」という印象だったのです。鹿児島の豚骨スープはおいしく、黒豚もうまい。醤油にも独特の個性がある。それが合わさって極上と言っていいとんこつ醤油ラーメンに仕上がっているのは確かでした。トッピングを含めたルックスも見るからに「おいしいラーメン屋さん」のそれであり、麺もこむらさきのように独自路線を突っ走るわけでない、いかにもラーメンらしい麺。これなら誰が食べてもおいしいと認めるはず、と確信しました。
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ここに、いったい我々はローカル料理に何を求めるのか、というこの連載を通して投げかけ続けているテーマが現れます。もし僕が鹿児島に住んでいたら、こちらの店にもきっと定期的に行くでしょう。もしかしたら都会的でオーソドックスなラーメンに飢えた結果、頻度はこむらさき以上になる可能性もありますし、県外から誰かが訪ねてきたら、相手によってはこちらにエスコートすることも考えられます。
しかし僕はここに住んではいないのです。実家があるとはいえ、数年に一度しか訪れない街でそちらを選ぶ理由はありません。ラーメンを2回食べるチャンスがあったとしても、2回ともこむらさきに行きます。わざわざ僕に鹿児島で食べるべきラーメンを尋ねるようなタイプの人に、都会でも食べられるようなラーメンを薦めることもないでしょう。
それより少し後ですが、僕はこむらさきの店頭に張り出された新しい蘊蓄書きのポップをネットで目にしました。ざっとこんな内容です。
県内産黒豚のジューシーなチャーシュー、
無カンスイながら国内産小麦粉でコシのある細麺、
豚骨・カルビ・丸鷄・椎茸・昆布を煮込んだスープ、
この三味の相性の良さがこむらさきの特徴です。
これを読んだ僕は、しばし感心してしまいました。今どきのラーメンを語るような語り口でこむらさきのラーメンを語るとこういうふうになるのか……と。確かに現代においてチャーシューは「ジューシー」であることが良しとされます。麺にコシがあることは必須と言っても良いでしょう。スープが複雑な旨味を湛えていることも、実に有効なアピールです。県内産・国内産・無カンスイといったワードも、多くの人にある種の安心感と誠実な印象を与えそうです。
しかし、と僕は同時に思ったのです。このコピーは本当にこむらさきの魅力を伝えているのだろうか? と。「ジューシーなチャーシュー」と言うと、多くの人はそれこそ低温調理のレアチャーシューか長時間煮込んだトロトロのチャーシューを想像してしまうのではないか。こむらさきのチャーシューは、実際はそういうものとは対極にあると言っていい、噛み締める肉の旨味が特徴です。麺には確かに独特の食感があり、それを「コシ」と表現できなくはない気もしますが、それは一般的なラーメンのコシとは明らかに別種のものです。
この文面から想起されるのは、「いかにも今どきのおいしそうなラーメン」です。しかし少なくとも僕がこむらさきを愛している理由は、そういったラーメンから確実に距離を置いた孤高の存在であるがゆえです。逆にこのコピーだけを読んで入った人は、ますますイメージとのギャップに困惑するのではないか、と要らぬ心配までしてしまいました。
現代においてラーメンは多様化していると言われます。それはまあその通りなのでしょう。古くからの系譜はその延長線上に発展し、そこからは新しい系譜も枝分かれし続けています。ローカルラーメンからの逆輸入的な取り込みにも余念がありません。インスパイアなどの形で、価値が再発見されることも度々です。何より、ジャンルの枠を超えて職人個人の個性も、自由に発揮できるようになってきています。
しかしその個性は、あるいくつかの決まりごとのルール的な組み合わせの中にしか許されていない印象もまたあるのです。こういうものこそがおいしいのだ、こうあるべきなのだ、という暗黙の了解の上に成り立つ順列組み合わせです。そして高度に洗練された「ラーメンを語る言葉」がその枠組みを規定する。
麺にはコシがなければならない、スープにはコクと深みがなければならない、チャーシューがパサついていてはいけない……例えばそんな暗黙のルールがあります。その価値体系からはみ出したものはなかなか評価されません。
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