よみタイ

関東いたるところ蕎麦店あり……ハマったら抜け出せない、蕎麦という迷宮

博覧強記の料理人、美味の迷宮を東奔西走す!
日本の「おいしさ」の地域差に迫る連載。

前回に続き、奥深すぎる関東の「蕎麦文化」について。

蕎麦という文化②

 僕が仕事がらみで頻繁に東京を訪れるようになったのは、10年ちょっと前くらいのことです。西日本で生まれ育ち、その後長く名古屋で暮らしていた僕にとって、東京の食文化は未知との遭遇の連続でした。蕎麦もそのひとつです。
 ある時から僕はそんな蕎麦にハマり、まずは「名店」と言われるような老舗を片っ端から巡りました。最初は訪れること自体が楽しみでした。蕎麦が好きと言うより、老舗の蕎麦屋さんに行く自分が好き、みたいな浮ついた状態です。しかし回数を重ねるうちに、蕎麦そのもののおいしさも徐々に理解できるようになっていきました。
 それと並行して、あちこちの立ち食い蕎麦にも行きました。こちらはこちらでまた全然違う楽しさがありました。ただし単純にどちらがおいしいかと言われれば、やはり「名店」の方と言わざるを得ませんでしたが、当たり前と言えば当たり前です。なにしろ値段が全く違います。名店の蕎麦は、蕎麦だけでお腹が膨れるようにはできていません。「蕎麦前」と言われる酒肴をつまみに酒を飲み、最後にようやくザルに薄く盛られた「もり」で締めます。そこまであっという間に3千円以上にはなってしまいます。ただしそれでも腹八分目。しかしそれがまた佳いのです。

 僕が知る限り、うどんにはこういう文化がほとんどありません。僕は京都の麺類食堂がことのほか好きなのですが、最近では後継者不足などを理由に次々と閉店していっているそうです。そういう店はとにかく値段が安く、確かにいかにも儲かりそうにはありません。しかし安いと言ってももっと安いチェーン店などはいくらでもあり、そことの競争ではかないっこありません。
 多少の贔屓目はあるかもしれませんが、京都の麺類食堂はだしも上置き(うどんや丼ものの具)も抜群においしく、大袈裟でなくいわゆる「京料理」にも決して引けを取りません。東京の高級蕎麦屋さんのように、その技術や素材を駆使してつまみを出し、酒を飲ませ、最後に伝家の宝刀の如き麺をごく軽めの量で提供する……そんな形態がひとつの文化として育っていたら、経営にももっと余裕が生まれ、継ぎたい人だって現れるのではないか、と思いました。
 逆に言えば東京で、数千円払っても納得するような蕎麦屋文化が成立したのは、ある意味奇跡的なことです。単に味のことだけで言えば、京都のうどん屋さんには、充分そのポテンシャルがあると思います。おしのぎで太巻きをひと切れからの、だし巻き、おひたし、のっぺいのアタマなんかをつまみに酒を飲み、最後は小碗のきざみうどん、なんて、想像するだにうっとりします。これなら3千円でも安いくらいです。見果てぬ夢ですが。
 とにかく東京の人は、その奇跡の蕎麦屋文化を存分に誇って良いのではないかと思います。確かに名店と呼ばれる蕎麦屋さんは、時に、「値段ばかり高くて量が少ない」と揶揄されることもあります。しかしそうであるからこそ、大資本有利な現代においても飲食ビジネスとして独自の地位を保ち続けているのです。何より、そういう蕎麦屋さんで過ごすひと時は、ラーメン店とも居酒屋とも全く違う、ゆったりとした独特の時間と空気が流れます。その気になればいつでもそれを楽しむことができる、これこそが文化というものなのではないでしょうか。

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 そんな名店の蕎麦屋さんでは「もり」をはじめとする冷たいつけ蕎麦を中心に食べていた僕ですが、立ち食い蕎麦では、温かい蕎麦を選びました。それが王道である、という耳学問から入ったとも言えます。
 業態としての立ち食い蕎麦は、昭和の高度経済成長期に一気に広がったそうです。忙しくなるばかりの当時のサラリーマンや、東京オリンピックを前に地方から続々とやってくる出稼ぎ労働者のための、さぞや大事な場所だったことでしょう。こちらは名店の蕎麦屋さんとは違い、良くも悪くも今は、どちらかと言うと大資本のチェーン店が優勢という印象です。
 そんなチェーンの立ち食い蕎麦屋さんの味には、さほど異文化を感じることもなかった僕ですが、いかにも昭和の時代からやっていそうな個人店に飛び込むと、やはりひと味違うことが度々ありました。醤油の味がひときわ濃いのは想定内でしたが、もうひとつ気が付いたのは、だし感の薄さです。
 そう言うとまるでディスっているようですが、決してそういうわけではありません。確かに京都では、これでもかというくらい鰹節の香りが主張してきます。大阪だと鰹節もさることながらそれ以上に昆布です。それが東京の古い立ち食い蕎麦になると、醤油と蕎麦の味わいがだしにかき消されることなくダイレクトに主張してくる、という「違い」の話です。つゆにおけるうま味の多寡は、必ずしも優劣を意味するわけではありません。
 しかし僕は昔ながらの立ち食い蕎麦を通じて、前回も触れた「真っ黒けでしょっぱすぎ」という関西人による東京のつゆへの不満の意味を改めてちゃんと理解できた気はします。なるほど、いきなりこれに出会ったのなら、カルチャーショックを受けるのもむべなるかな。昔はチェーン店ではなくこういう店が圧倒的に多かったでしょうしね。

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稲田俊輔

イナダシュンスケ
料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。
和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店25店舗(海外はベトナムにも出店)の展開に尽力する。
2011年には、東京駅八重洲地下街にカウンター席主体の南インド料理店「エリックサウス」を開店。
Twitter @inadashunsukeなどで情報を発信し、「サイゼリヤ100%☆活用術」なども話題に。
著書に『おいしいもので できている』(リトルモア)、『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(柴田書店)、『チキンカレーultimate21+の攻略法』(講談社)、『カレー、スープ、煮込み。うまさ格上げ おうちごはん革命 スパイス&ハーブだけで、プロの味に大変身!』(アスコム)、『キッチンが呼んでる!』(小学館)など。近著に『ミニマル料理』(柴田書店)、『個性を極めて使いこなす スパイス完全ガイド』(西東社)、『インドカレーのきほん、完全レシピ』(世界文化社)、『食いしん坊のお悩み相談』(リトルモア)。
近刊は『異国の味』(集英社)、『料理人という仕事』(筑摩書房)、『現代調理道具論』(講談社)。

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