よみタイ

沼津の名店は、あんかけスパゲッティ界の“シーラカンス”かもしれない

 それ以外の地域とは、静岡県沼津市です。沼津市には現在2軒のあんかけスパゲッティの店があります。かつてはもう1軒、その両店のルーツとなった店もありました。そして彼の地には、名古屋では本流であるヨコイ系の店は僕が知る限り1軒もありません。現存する2軒はどちらもとても素敵なお店で、地元でも人気を二分すると言います。僕は特にそのうちの1軒を「日本一のあんかけスパゲッティ店」と認識しています。しかし同時に僕はその店を本当は「あんかけスパゲッティ店」とは呼びたくありません。このことは、なぜそこを日本一とまで言うのか、というその理由とも深く結びついています。
 前回書いた通りあんかけスパゲッティは、賄いとはいえホテルレストラン生まれです。そして最初に巷に広めたのは、スパゲッティハウス・ヨコイの横井博シェフを始めとする、西洋料理出身のコックさんたちであり、その時代においては、洋食レストランのメニューのひとつでした。横井シェフが最初にそれを提供した〔そーれ〕というお店も、スパゲッティだけでなくステーキやコース料理なども提供するレストランであり、当時の文化人たちが集うサロンのような役割も果たしていたと伝え聞きます。
 しかし時代と共にそれは、徐々にカジュアル化していきました。その流れを決定付けたのが「あんかけスパゲッティ」という名称の付与だったのではないかと思います。そこには圧倒的な親しみやすさと分かりやすさがありましたが、同時に、洋食レストランの格式ある料理というニュアンスはほぼ失われました。2000年代、巨大掲示板サイト「2ちゃんねる」(当時)のあんかけスパゲッティ関連スレッドでは「サラリーマンのパワーフード」というキャッチコピーが付けられ、おおよそ誰も違和感なくそれを受け入れていました。名古屋のあんかけスパゲッティは、レストラン料理からいわゆる“B級グルメ”に立ち位置を変える(あえて剣呑な言い方をするなら“身をやつす”)ことで、命脈を保ち、そしていつしか過去最高のポピュラリティを獲得することになったのです。

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 沼津のあんかけスパゲッティは、そういう変遷が起こる前に、彼の地にもたらされました。あくまでハイカラな洋食として地元で愛され続けてきたそれが、観光客におもねるかのごとく名古屋流の「あんかけスパゲッティ」という(あまりにも庶民的すぎる)名称を受け入れなければいけない謂れもありません。そこではレストラン料理としての「スパゲッティ」が、粛々と提供され続けてきたのです。
 その店は、単にスパゲッティ店としてだけではなく、洋食店としても一流だと思います。例えば「ポークカツ・ブールノワ」というメニューは、焦がしバターとレモンのソースを染み込ませたフライパン焼きの見事なカツレツがスパゲッティに添えられています。いや、この場合主役はむしろカツレツの方です。ハーブが鮮烈に香るソースを纏ったスパゲッティと組み合わされたそれは、まさに由緒正しき西洋料理の味わいです。残念ながら現在の名古屋では、そこまで毅然としたメニューは、さすがに見ることはできません。
 この店のレビューサイトを覗くと、「名古屋から伝わったあんかけスパゲッティが独特の形に変化したもの」と解釈している人が多いようですが、もちろんその見立ては間違いです。変化したのはむしろ「本場」名古屋の方だからです。本場のあんかけスパゲッティは、熾烈な競争原理の中で、淘汰や変化が進みました。沼津ではそれが無かったから、精神性も含め伝統がほぼそのまま伝承されました。どちらが正解か、ましてやどちらがおいしいのか、という比較は無意味です。ただ、これはひとつの数奇な、そして極めて興味深い物語である、ということだけは確かです。

[追記]
本来であればその沼津のお店の具体的な店名を出したいところなのですが、こちらのお店はいわゆる「取材拒否店」でもあるため、今回それは差し控えます。とはいえこれだけの情報があれば推理は十分可能かと思います。どうかこっそり訪問し、ひっそりと愛してください。

イラスト:森優
イラスト:森優

次回は11/2(土)公開予定です。

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稲田俊輔

イナダシュンスケ
料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。
和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店25店舗(海外はベトナムにも出店)の展開に尽力する。
2011年には、東京駅八重洲地下街にカウンター席主体の南インド料理店「エリックサウス」を開店。
Twitter @inadashunsukeなどで情報を発信し、「サイゼリヤ100%☆活用術」なども話題に。
著書に『おいしいもので できている』(リトルモア)、『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(柴田書店)、『チキンカレーultimate21+の攻略法』(講談社)、『カレー、スープ、煮込み。うまさ格上げ おうちごはん革命 スパイス&ハーブだけで、プロの味に大変身!』(アスコム)、『キッチンが呼んでる!』(小学館)など。近著に『ミニマル料理』(柴田書店)、『個性を極めて使いこなす スパイス完全ガイド』(西東社)、『インドカレーのきほん、完全レシピ』(世界文化社)、『食いしん坊のお悩み相談』(リトルモア)。
近刊は『異国の味』(集英社)、『料理人という仕事』(筑摩書房)、『現代調理道具論』(講談社)。

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