2025.3.22
自分はこの先、ずっと悲しい物語の主人公でいなければならないのだろうか【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡8】
受けいれがたい別れがやってきたとき、人はどのようにその後を生きていくのか――。
仕事仲間であり友人でもある二人が、東京とパリを結び、喪失と再生について言葉を交わす往復書簡。
前回の宇宙レベルで生と死を考える猫沢エミさんからのお便りに、小林孝延さんがお返事します。
第8便 哀しくてもおなかは空くし
猫沢さん、今月もお手紙ありがとうございます。僕が熱帯雨林のほとばしるエネルギーを手紙に込めてしまったからか、猫沢さんからのお返事も銀河の彼方、宇宙と量子力学の世界にまで広がり、まるで無限の迷宮に足を踏み入れたかのような気持ちになりました。僕たちの「生と死」をめぐる旅の終着駅はいったいどこになるのでしょうね。ねえ、メーテル、機械の体を手に入れたら永遠の命が手に入るの?……こほん(咳払い)、失礼しました。
確かに、あのとき、大切な存在を見送った後の僕は「感情が湧かない水平線の上に佇んで」いるようでした。そうしないと僕の精神は砂の城が風にさらわれるように一瞬で崩れてしまいそうで。ぐらついたジェンガの塔の最後の一本を抜く直前のような、極限の均衡の中に立っていたのかもしれません。感情の決壊を防ぐため、最後の砦を必死に守っていたような気がします。わずかな刺激でぎりぎりで保たれていたバランスが崩れ、すべてが制御不能になるから心のスイッチを意図的に切っていたのでしょう。
妻の葬儀の後は、電気を灯すことすら億劫になり、ずっと暗い部屋で同じ映画を繰り返し見ていました。薫が好きだった『バグダッド・カフェ』。彼女がDVDで何度も見ているのを横目で眺めながら、なんだかんだ理由をつけて、結局、一緒に見ることはなかったんですよね。なんで見なかったんだろう。で、もはや手遅れだったけど、何か彼女の心の痕跡を見つけることができるかもしれない、そんな気持ちで映像を追いかけた気がします。「いったいこの映画で何を感じていたの?」と、もう尋ねることができないと思うと知りたくて知りたくてたまらなくて。実際は映画の筋なんか頭に入ってこなくて、頭の中はからっぽ。それでも挿入歌『Calling You』だけはじわっと心に染み込んでくるんですよ。だから今も耳にすると当時の情景が鮮明に蘇ってきて、うわわわって、なるんです。それからは本も読めなくなり、何も手につかなくなって、この先どうなってしまうんだろうと思うと本当に怖かったなあ。だけど、日常というものは待ってくれなくて、どんなに泣いても、わめいても、犬の散歩にはいかないといけないし、1週間も経てばまた何事もなかったような顔をして会社に行って、これまでどおり仕事をしなければいけないんです。だから心にピタッと蓋をするしかなかった。
それでもダメなんですよね、ふとしたときに突然気持ちが暴発してしまうんですよ。自転車を漕いでいるとき、スーパーで大根を選んでいるとき、ただ信号待ちをしているとき、いつも突然、予測不能。ダムが決壊したかのように急に涙があふれて、嗚咽して、周りにいる家族を驚かせていました。あの現象はいったいなんなんでしょう……。なんでもない日常であればあるほど油断できないのですよ。何がトリガーになるのかわからないから。吉祥寺のスーパーの真ん中でひざまずいて号泣するおっさん、そりゃあ周りの人は引きますわな……。
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でも、じつはこの悲しみの感情をどう抑えるかと同じくらい僕が苦しんだのはその逆の感情に対する「罪悪感」なんです。妻が亡くなりしばらくは食欲も感じないほどだったけど、当たり前ですがお腹は空いてくる。どんなに悲しんでも、心が水平線の上に佇んでいても、やっぱりお腹は空くんですよね。だけど、こんなときにおいしいものを食べてしまって僕はいいのだろうか、おいしいと感じてしまっていいのだろうか、そんな罪悪感に取り憑かれました。もういっそ、食欲よ消えてくれないか! そんな思いでした。だけど、悲しみの暴発を恐れて、極力、感情を動かさないように、ニトログリセリンの液体爆弾を運ぶようにそーっとそーっと丁寧に心を扱っていたはずなのに、ご飯を食べると「おいしい」という気持ちがひょっこり顔を出してしまうときがあるのです。そんなとき、「あ! これって裏切りじゃないのか?」そんなふうに思ってしまうのです。ハッとして、あわてて仏前で手を合わせ、ごめんなさい、ごめんなさいと謝って赦しを乞うのですが、妻の声なんてぜんぜん聞こえない。僕には猫沢さんのようにいろんなものから声が聞こえる繊細な感受性のかけらもないんだと思うと、同じ表現者としてほんと泣けてきますね。
こないだのお手紙の中に猫沢さんはこう書いていましたね。「大切な存在を亡くした心の傷は時間と共に〝癒える〟とか〝薄らいでいく〟んじゃないかって初めは考えていました。でも、私の場合はそうじゃなかったんですよね。傷も心に空いた穴も、決して癒えたり消えたりはしない。ただ、その跡に新しい何かが芽吹いて緑地化していくような、そんな感覚。だから、〝存在を忘れてしまう恐怖〟はありません。傷も穴もそのままなので、哀しみも基本的にはなくならない。」
僕もそう思っていました。だけどいつしか心に空いた大きな穴が少しずつ埋まっていくのを感じるようになりました。そして、同時に穴が埋まることに対する罪悪感を背負っている気がするようにもなったのです。『妻が余命宣告されたとき、僕は保護犬を飼うことにした』を書いたとき、ある友人から「私は配偶者の死の物語なんて絶対に書けない」と言われたことがありました。そのときに「もしかして僕は薄情な人間なのかもしれない。もっともっと心をズタズタに引き裂かれて悲劇の沼に沈んで行かなければいけなかったのだろうか」と、思い悩みましたね。出版社から執筆を依頼されたものの、なかなか取り掛かることができず、実際に書けるようになるまでに数年という時間が必要であったにせよ、人によっては「そんな短期間で深い悲しみを他人事のように物語にするなんてどうかしている」と思うのも仕方のないことなのかもしれません。
一番最初の手紙にも書いたように、一冊の本にすることは妻や家族に対する懺悔の意識でもあったし、事実それによって自分自身が救われた気もしました。ただ、そこに注がれている視線は当事者のそれというよりも、少し俯瞰した位置から眺めている客観性に満ちたものであるという感想もいただきました。百歩譲って自分自身が編集者であるという仕事の特殊性からくる「客観」であったとしても、やはりそこに僕の「人間性」というものへの違和感を与えるものがあったことは否めません。
妻が亡くなってから、僕はこの先の人生において、あまり大きな幸せを望まないようにしようと思うことにしていました。でも、時間が経つにつれ、気がつけば自分の人生の第2章みたいなものが動き出していました。そしてその頃から薫に対しての寂しさや悲しさが大きな感謝やもっと深い愛のようなものに変化していくのを感じました。同時にこの先、僕が人生において幸せを感じることを自分自身に許してあげてもいいんじゃないかなと思えるようになってきたのです。
子供たちが無事に巣立ったことも大きな要因なのかもしれません。ふたりはすっかり成長し自分の人生を歩み出しています。今は月に1〜2日程度会って食事をするくらいですが、それくらいの距離感が今の彼らにとっても僕にとってもちょうどいい。1年くらい前にみんなで食事をした際に「お父さん会社を辞めようと思うんだけど」と伝えました。少しは心配するかな?と思いきや、「いいね‼ もう好きなことやればいんだよ! 応援するよ!」「もし食えなくなったら俺が面倒見るからさ(笑)」 そんな言葉を返され、知らないうちにずいぶん逞しくなったと感心したものです。
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母親の死を通して子は成長しました。強く優しくなりました。じゃあ果たして僕はどうなんだろう。どう生きるのが正解なんだろう。SNSを通じて僕の暮らしぶりに興味をもってのぞいてくれている人たちは、ずっとこのおじさんが悲しい物語の主人公でいることを望んでいるのだろうか。おいしいものを食べてはしゃいだり、旅をしたり、はたまた他の誰かを好きになってしまったりすると裏切り者と断罪されるのではないだろうか。そんなことを考えてしまう自分がいます。『つまぼく』という本を書き自分と家族を世に晒したことで、勝手に使命感みたいなものを抱いてしまったのかもしれません。何かをしようとするたびに後ろめたさにも似た感情がいまだ僕を苦しめることがあります。だから最近ではそんなときに「もっと自分の好きなように生きればいいんだよ」と自分自身にそっと言い聞かせています。
大切なものを失った喪失感は他人が測れるものではないし、定義するものでもない。向き合い方はそれぞれだと思うのですよね。そこからもう一度立ち上がって再び前に進むことは、失ったものを忘れることと同義ではないと思うのです。違いますかね。
もっとも、僕たちのような仕事は、人生そのものがある意味で商品でもあります。だからこうした葛藤は避けられないのかもしれません。そう考えると、この悩み自体がどこか打算的で、いやらしいものに思えてしまい、自分自身に嫌気が差すこともあります。猫沢さんは、パブリックイメージと本当の自分との間で揺れることはありますか? それとも、そんなことは気にせず、ただ自分のままに生きているのでしょうか。
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