2024.10.26
50歳を過ぎて家を手放しパリへ――人生最大の〝方違え〟【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡3】
イオの扁平上皮がんが発覚したとき、私はまず彼女が死ぬことへの阻止に挑みました。しかしこれは、猫の扁平上皮がんという、進行の早いがんだったことがひとつの要因になっています。泣いて膝を抱えている時間もなく、毎秒ごとに彼女の生きる道が狭まる中で、たったの1週間で延命治療をするか、穏やかな最後の日々を送らせるかを決めなくてはいけませんでした。あの頃、〝せめて他の、もっと進行が緩やかながんだったなら!〟と何度思ったことか。神さまでもないのに、そして言葉の通じない動物に意思を確認することもできず、命の采配がこの手の中にある畏れ多さに、あの頃の私は気も狂わんばかりでした。そんなギリギリの精神状態の中、私にとっては目の前で起きたことに飲み込まれないよう文章にして吐き出し、それを即席でも分析して正気を保つ必要がありました。そんな私の姿を誰かが見ているだとか、どう感じているかなどという視点を持つ余裕はひとつもなかったので、小林さんのお手紙にあった「猫沢さんはまるで自分の『罪悪感』を一生消えないタトゥーのようにあえて生生しいままに本の中に刻みつけて表現したのでしょうか?」という一文には、ちょっと驚きました。確かにそう見えても仕方がないですし、たとえそうでなくとも、そう読めるような本を、渦中にいた私が書いたことは事実です。
あの頃の私は、〝イオの崇高な死を、彼女から取り上げてはいけない〟という強い思いで、緩和ケアの難しい判断をしていました。そこには、もう助からないという絶望があり、四方を壁に囲まれた状況の中で、それでもわずかな希望を探さねばならなかった。そしてパンドラの箱の奥底、最後に残されていたのは、穏やかな最後の日々を送らせてあげるために、〝イオから死を取り上げない=私の望み(エゴ)は捨てる〟という哀しい希望でした。イオのがん宣告から亡くなるまでの1ヶ月半は、それまでの人生で、いちばん辛く苦しい時間でしたが、同時に純粋で崇高な命の教えが数え切れないほどありました。こんなに多くのものを受け取ったら、消化するのにそれなりの時間がかかるのに、本として残すには、あまりにも早すぎたのかもしれませんね(それでもやっぱり、私にとっては書くことが必要だったと思います)。
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〝死は、死に逝く当事者のものである〟という考えを私は持っていますが、これは私の父の死に様に強く影響を受けています。私の父はズルっぱげのボケナスでしたが、自分の最期についての決断には揺るぎがなく、そのおかげで彼が望んだ穏やかな数年間を送ることができました。死をリスペクトすることは、その手前にある生をリスペクトすることに直結していると父の最期から学んだのもあり、この哲学はイオの見送り時にもスライドされることになりますが、今振り返ってみると、父の死にも、イオの死にも、ひいてはいつか訪れる自分の死にも、〝死とは当事者だけのものなのだろうか?〟という、あらたな疑問が湧いてくるのです。小林さんのお手紙にあった、「『死』っていったいだれのものなんでしょうね」という問いかけとも重なります。
薫さんの来るべきその時のために「本人が『もう十分だよ』と納得して死を迎えるにはどうしたらいいのか?を考え」ていたのは、「もしかしたらそれは死を迎える本人のためというより、残される自分と家族のために、だったのかもしれない」と。そしてそんなご自分を「僕はただただ呆然と立ち尽くして、それを受け入れてしまった」と感じていらっしゃる。でも、私は逆に想像してしまうんですよね。イオの見送りの日々を、もう少し穏やかな心持ちで過ごすことができていたら、イオからしてみれば、相当暑苦しくて重かったであろう私の存在の圧を、単純に減らせたんじゃないかって。見送り側が情熱を持てば持つほど、見送られる側の気持ちはむしろ切なくなるのかもしれない。小林さんの「『やり尽くしました』とは言えない後ろめたさ」は、むしろ薫さんに過剰な圧をかけず、最期の時間に余白を生んでくれたのではないかと想像します。
〝イオから死を取り上げない=私のエゴは捨てる〟という当時の方針も、本当に私はエゴを捨てきれていたのか?とあらためて自問すると、ちっとも捨てきれてなんかいなかったのですよね。私は、イオのことを第一に考えつつも、私自身に悔いが残らないよう、いろんな決断をしてきたのだと気づきました。そして、それは当たり前のことなんじゃないかとも。死に伴走する人は、愛ゆえに苦しみますが、逝く者が最後に望むのは、この世に残していく愛する人たちの幸せだと思うんです。だから、本人が納得して死を迎えることと、見送る側が納得して死を受け入れることは、限りなく同じことなのではないかと。
前出の〝冷静と情熱の間〟になぞらえて、小林さんの見送りまでの葛藤を〝冷静〟、私の葛藤を〝情熱〟と仮定すると、どちらもその間で葛藤することには変わりがないのかなと思うんですよね。
ところで私はイオの看取りの最中に、彼女がこの病状でも死なずに生き続けてくれるのなら、それがどんなに大変でも一生このまま看続けていたいと、非現実的なことを強く願っていました。その反面、この状況下では説明しにくい多幸感に時折包まれることも。小林さんが薫さんの看護をされていた時、普段とは違う感覚や思考にとらわれることはありましたか?
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あらやだもうこんな時間。この往復書簡ね、真夜中じゃないと筆が進まないんですよ。だてに〝真夜中のパリから〟じゃないですね。でもなぜか、あちらの世界に行った存在を考えることも多いこの手紙をしたためるのは、あの世とこの世の境目が薄く感じる夜の方が似合っている気がします。
パリは今日まで夏の名残の晴天に恵まれていましたけど、明日から急に秋が深まる雨の1週間が始まりそうです。そろそろタイムのお茶を飲んで、猫たちとベッドに潜り込むことにします。フランスでは、風邪の防止に殺菌効果の高いタイムにレモンとはちみつを入れて飲むんです。9月も下旬なのに日本がまだ暑いと聞くと、パリの私はなんだか不思議な気持ちになりますが、東京の小林さんよりも季節を先取りしている謎の優越感に浸りながら、筆を置くことにします。こばごろう王国のみなさまと、健やかな夏の終わりをお過ごしください。
最近、自分の太ももを眺めて「これ、ハムにしたら高級食材」とか思っている自分にオワコン疑惑の猫沢より
追伸:新調された家具、素敵ですね! うちも、新顔の家具はすぐピガとユピに占領されます(笑)。先日、またもや道端で拾い物をしました。古いスーツケースの中には昔の体重計とブリキのお菓子缶が入っていて、どれもまだ使えそうです。ちなみに後ろに見える背の高い画家用のデッサン椅子も拾い物。
パリは、捨てる神あれば、拾う神ありの街です。
次回、小林孝延さんからの返信は11/23(土)公開予定です。
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破天荒で規格外な家族との日々を振り返ると、そこには確かに“愛”があった。
故郷・福島から東京、そしてパリへ――。遠く離れたからこそ見える、いびつだけど愛おしい家族の形。
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