2018.10.22
帯留め(一)
少し前から、まめに着物を着るようになった。
服飾に心を向けるのは、一般的にはお洒落と呼ばれる人たちだ。しかし、正直なところ、私は自分をお洒落だと思ったことはない。
人前に出るときは気を遣うけど、それは相手や場所柄に対する礼儀であったり、この年で特撮キャラのTシャツはいくらなんでもなあ、という、世間の目を気にしてのものだ。
いや、特撮キャラやTシャツが悪いというわけではない。
服、あるいは愛するキャラクターに強い拘りがある人ならば、どんな場所でも己のファッションを貫くだろう。そういう人たちの服装はいっそ清々しいものがある。
しかし、それほどの拘りを持たない私は、無難が一番。もし、その服が褒められたなら、人並みに嬉しい程度のものだ。
そんな私が、着物という厄介な民族衣装に手を出すことになったのは、取り憑かれてしまったからに他ならない。
夢中になる、との比喩ではない。
話は怪談なのである。
服飾に拘りはないと記したが、和服そのものは、随分前から好きだった。
好きどころか、なぜか着物だけは幼い頃から執着していた。
そう言い切れるのは、幼い頃に着た着物の記憶が、切れ切れながらも鮮明に残っているからだ。
お祭りのときに着た浴衣、その三尺帯の色合い、肌触り。お正月に着せてもらったウールのアンサンブルの柄。七つのお祝いの振袖に袖を通したときに感じた、絹の重さと衣擦れの音。
洋服に関する思い出は皆無に等しいにもかかわらず、着物は細かいところまで、不思議なほどに記憶している。
七歳の七五三のとき、私は親戚への挨拶回りに連れていかれた。我が家は親戚が多かったので、それはほぼ一日がかりとなった。
慣れない着物は辛かろうと、母は着替えを持ち歩き、折々に「辛かったら脱いでもいいんだよ」と声を掛けてくれた。だが、私は頑固に首を振り、終日振袖を着続けた。
きつくなかったわけではない。事実、翌日は一日ぐったりしていた。それでも、絶対に脱ぎたくなかった。
なぜなら、着物を着ている自分が愛しくて仕方なかったからだ。
幼い頃の私は、相当、お洒落だったということなのか。否、当時から洋服はどうでもよかったのだから、これは着物に限った感情だ。
ならば、前世の因縁というものか。いやいや、言うならば、母の因縁だ。
母は、普段から和服を着ていた。
戦前生まれとはいえ、昭和も後半となれば和服は日常から遠のいている。それでも、母はちょっとおめかしという時は、必ず着物を身につけた。
しかも、母は着物が似合った。
娘の私が言うのもなんだが、母は相当な美人だった。
但し、お上品な奥様というタイプではない。顔立ちはモダンできつい。
ゆえに洋服でも目立ったが、その顔に和服を合わせると、不思議な迫力が加わった。
道を歩けば、振り返られる。和装の女性と行き合うと、大概の相手は顔を伏せ、場合によっては脇道に入る。
素人には見えないために、タクシーに乗ると「お店」を訊かれる。デパートに行けば、呉服売り場の店員が走り寄ってくる。
正体は町工場のおかみさんでしかないのだが、そんな母と周囲の様子を物心ついたときから見ていた私は、母には敵わないという気持ちと共に、着物の力というものを、常に感じ取っていた。
母自身も実感していたに違いない。そして、それ以上に、母も心底、着物が好きだったのだ。
しばしば、母は私に着物を仕立てた。
私は単純に喜んでいたが、今思うと、母は自分が似合わなかったり、年齢的に合わなくなった色柄を娘で楽しんでいたようだ。
だから、私の意見が通ることは、帯締め一本たりともなかった。もっとも、お金を出すのは母なので、口を出せる立場ではない。ゆえに、成人式もそれ以降も、着物は母の言いなりだった。
着付けも母だ。
「自分で着られるようになれ」とは、いつも言われることであったが、実際はまったく無理だった。なぜなら、私が手を出すことを母自身が許さなかったからだ。(つづく)