2020.11.6
鈴木清順と早稲田鍋
私は目の前のおじいさんをどう呼んでいいかわからなくて、失礼かもしれないと思いながらも「清順さん」と声を掛けるようになった。清順さんは、とても優しい。初めて遊びに行ったときは、「濱野さん、湯豆腐作ってよ」と言われた。材料費に数千円もらった。それを握りしめて、私は近所のスーパーに買い出しに行った。だが実は問題があった。20歳そこそこの私は、湯豆腐というものをよく理解していなかった。激安居酒屋にばかり行っているから、ふだんビールと唐揚げぐらいしか食べていない。粗野な食生活がたたり、湯豆腐という上品なものが想像できない。当時はスマホもないので手のひらで検索することもできない。「確か湯豆腐って、お湯に豆腐が浮かんでるんだよね? え、ちょっと待って、湯に豆腐だけ? 嘘……、だよね……? こんなにお腹が減ってるのに……?」このような思考回路を辿り、湯に豆腐がゆらゆらするだけの食卓はあまりにも侘しいという結論に私は達した。そこで自信満々に、豆腐に加えて白菜、春菊、ねぎ、しめじ、鱈などを買った。そして家に戻り、淡々とそれらを調理して出した。
「清順さん、できました。湯豆腐です」
私としては百点満点のできだった。普通の鍋よりも豆腐は多かったので、明らかにこれは湯豆腐だと思った。
「なんだい、こりゃあ。湯豆腐じゃないよ、こりゃ早稲田鍋だよ」
清順さんは一目見てそう言って、けらけら笑った。あまり笑わない人かもしれないというイメージがあったので、驚いた。リクエストに応えられなかったくせに、笑ってもらえて良かったとちょっと嬉しかったのも覚えている。
清順さんは、結局、早稲田鍋をたくさん食べてくれた。お酒もいっぱい飲んだ。確か日本酒だったと思う。こたつに入って、鍋をつつきながら、大きなテレビ画面で映画を見た。清順さんはミュージカルが好きだ。その日はたまたま『巴里のアメリカ人』が放映されていた。「ちゃんと見なさい、傑作だから。ここからいいよ。わくわくする」と清順さんは私に言った。私が見たあの頃の清順さんは、穏やかで優しくて、70歳過ぎても色気があった。
それから何度も、私は清順さんちに通ったのだ。勉強というより、遊びに行っていた。繰り返すうちに、清順さんとは、いつのまにか話の合うおじいちゃんと孫みたいな関係になっていたような気がする。だが緊張する瞬間もあった。ある日、清順さんに「なあ、濱野さんがいちばん美しいと思う情景はなんだい?」と聞かれたのだ。首筋がぴりっとした。私はまだ、というかいまでもだと思うが、「美」とは何かが分かっていなかったから、答えに窮し、本心でもないのに「火事です」と言ったのだった。清順さんはたぶん私の状態を見透かしていて「ふうん」と言っただけだった。死ぬほど恥ずかしかった。火事なんて見たこともない。