2020.11.6
鈴木清順と早稲田鍋
1997年頃のことだったろうか。映画に耽溺する大学生だった私は、当時、特に鈴木清順監督の作品が好きだった。『殺しの烙印』『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』は、何度見たかわからない。好きなあまり鈴木清順のことを毎日考えていたら、近所の古本屋で彼の古い著書を見つけた。エッセイだった。数百円で売られていた。わくわくして家に帰りむさぼり読んだ。清順の文章ははっきり言うと悪文で、意味がよくわからないことが多かった。しかしそれさえもまた、理屈とかけ離れた彼独自の映像美を連想させて、私は随分、納得したのだ。文章内容の意味などはどうでもよかった。
最後のページを繰る。奥付に、著者鈴木清順の住所が書かれてあった。2020年現在では信じられないが、古い出版文化では奥付に著者の個人情報を記す習慣があった。私は住所を諳んじた。
気づけば荒川のほとりにいた。住所が示しているのであろうマンションがあった。しかしなにせ何十年も前に出版された本の情報だ。いまだに彼がここに住んでいるとは限らない。私はじっくりマンションを観察する。ある部屋のベランダに、らくだ色のステテコが干してあった。たなびくステテコと、ひょうひょうとした白髪頭の清順が、私の心のなかで矛盾なく結びつく。ああ、きっとまだここに彼は住んでいる。
当時は電話ボックスというものがまだあった。なおかつ、電話ボックスには電話帳なるものが備えられていた。驚くべきことに、その辺一帯に住んでいる人々の名前と電話番号があからさまに、延々、五十音順に記されているのが電話帳というものである。私は「す」のページを開いた。なんということだろう、鈴木清順の電話番号が2秒くらいで見つかった。いとも簡単なことだった。
電話ボックスから電話を掛けた。「あい、もしもし?」。おじいさんの声がした。これが清順の声!と一気に胸が高鳴る。私の説明はたどたどしかったはずだが、大ファンで、実はすでに家の下まで来てしまったという話をした。早稲田大学の稲門シナリオ研究会という自主映画サークルに所属していて、清順映画を支えた脚本家の大和屋竺や田中陽造らの後輩にあたることも強調した。すると清順さんは「そうかそうか。今日はダメだけど、またおいで。事前に連絡頂戴ね」とおっしゃった。
完全に呆けた状態で私は荒川を去り、時間をかけて自宅のある東京の西側の町に戻った。帰りの電車のなかでは高揚よりも、いまさらのように緊張が襲ってきた。それから2週間後くらいだろうか、私は本当に鈴木清順の家に遊びに行った。