よみタイ

篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」
認知症の母を介護しながら二十年。ようやく母が施設へ入所し、一息つけると思いきや――今度は自分が乳がんに!?
介護と執筆の合間に、治療法リサーチに病院選び……落ちこんでる暇なんてない!
直木賞作家・篠田節子が持ち前の観察眼と取材魂で綴る、闘病ドキュメント。

第13回 究極の美味 術後四時間の夜食

 夢を見ていた。良い夢のようだったが起こされる。
 右の胸に、ずん、と痛みが来た。呼吸するたびに痛い。
 手術は終わったようだ。
「痛みはありますか」
「あります」
 声が出ない。何とか答える。
「1から10の間でどのくらいですか」
 あらかじめ説明はあったが、この場で聞くと何とも間の抜けた質問だ。
「2から3くらい……」
 朦朧もうろうとした状態でストレッチャーで運ばれていき、ベッドに転がされた。
 時刻は午後七時過ぎ。けっこう時間がかかったが、乳房とセンチネルリンパ節の切除だけで、リンパ節郭清かくせいは無しで済んだ。
 体にいろいろな管がついている。それに加えて足にも何か巻かれた。
 マッサージ器だ。血栓を防ぐための。
 十数年前に手術をした時は、着圧靴下だったものだが……。プシュープシューと空気が出入りしてふくらはぎを揉まれるのはなかなか贅沢な感じがする。
 看護師さんから再び「痛いですか? 1から10の間のどのくらいですか」と問われる。
「痛いです。2から3の間」
 かたわらにいらっしゃるY先生が「ああ、痛い手術なんですよねぇ」
 それを先に言ってくれ。
 とはいえ点滴で鎮痛剤が投与されるとすぐに楽になる。もともとが1から10の段階の2から3なのだから、のたうち回るような激痛でもないのだ。
 
 一世代前の方々の話では術後の痛みの凄惨さをよく耳にしたが、私はそんなものを知らない。
 博物館などで古代・中世の医療器具の展示を見ると、当時の手術の様を想像して震え上がったりするが、麻酔薬が用いられるようになった後も、手術に限らず様々な医療行為、あるいは病気に「激痛」は長い間付きものだった。
「死なないで済んだのだからありがたい」の時代から、QOLの向上を目指す時代へ。それだけでなく、痛みそのもののもたらす回復の遅れを防ぐために、積極的に痛みをとっていく時代に入って久しい。
 
 うとうとと、もっと眠っていたい気分だが起こされる。
 ほどなく尿道カテーテルが外され、看護師さんに見守られ、立ってトイレに。めまいなどは格別無い。
 十一時前に、夜食が運ばれてきた。
 早い。手術が終わって病室に戻ってから四時間足らずだ。
 メニューはロールパン二つに牛乳、チーズとオレンジ。
 半分食べれば点滴が外れるが、無理しないで良いとのこと。
 全身麻酔の後なので、気持ち悪くなっても困るなぁ、と恐る恐るオレンジに手を出す。
 おいしい。
 次いでロールパン。ふっくらしっとり。なんだ、このおいしさは。チーズを挟んで食べると絶品。一つだけにしておこうと思ったが止まらない。

 牛乳はいつになくコクがあり甘い。どれもこれも今まで経験したことのないような至福の美味だ。
 前夜からの二十四時間断食の効果か。
 完食した。下げに来られた看護師さんが少し驚いたような顔をして、点滴を外してくれた。
 吐き気はまったくない。事前に聞いてはいたが、麻酔薬の進歩にあらためて驚く。
 朝から続いていた頭痛とどうにもならないだるさも取れていた。あの不調はお腹が空いていたからだったようだ。
 立って歯磨き洗面を済ませてまた横になる。その間、「完食」「ひとりぼっちでヒマだ」「寝る!」といったやくたいもない内容の携帯メールを夫に送る。夫の方は夜の十時過ぎに自宅にたどりついたとのこと。手術は受ける方より立ち会う方が疲れるものだ。身体的にも精神的にも。
 
 翌朝六時前に目覚め、またしても夫に携帯メール。痛みと違和感はあるが、大したことはない。やることもないのでのろのろ起きだし、出窓にゲラを置いて『鏡の背面』の著者校正の続きにとりかかる。窓からは道を隔てて聖路加せいろかのツインタワー。建物の間からきらきら光る隅田川の川面が見える。自分の仕事部屋より環境が良い。
 
 朝食後にY先生が見えてささっ、と胸帯を外した。
 えっ、そんな早く? そしてびっくり。ガーゼや絆創膏でしっかり保護されていると思った傷口は、きわめてシンプルに肌色のテープで留められているだけ。中にティッシュエキスパンダーやドレーンが入っているので、皮膚はでこぼこと盛り上がっているが、内出血のようなものはない。その上に直接パジャマを着てOK。歩き回るときだけ、揺れ防止のために術後専用ブラジャーを着けるようにと看護師さんから指導がある。
 さっそくあのよろいのようなチェコ製のブラを着装する。腫れが引いていないので、ホックは半分外して着けるようにとのことだ。
 ドレーンから流れ出る液体を溜めるポシェット状のバッグを首から下げ、百円玉を握り締めて病棟ラウンジにある自販機まで行く。そのままの勢いでエレベーターに乗り地下の売店で可愛らしいナイトウェアなどを物色するうちに、ちくちくと痛みが出てきたので戻る。少しはおとなしくしていろ、という警告らしい。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。最新刊は『鏡の背面』。
撮影:露木聡子

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