よみタイ

篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」
認知症の母を介護しながら二十年。ようやく母が施設へ入所し、一息つけると思いきや――今度は自分が乳がんに!?
介護と執筆の合間に、治療法リサーチに病院選び……落ちこんでる暇なんてない!
直木賞作家・篠田節子が持ち前の観察眼と取材魂で綴る、闘病ドキュメント。

第12回 手術台上のガールズトーク

 四月二十日。手術当日。早朝から目覚めたので、『鏡の背面』の著者校正を続ける。
 六時に看護師さんがやってきて検温。
 to doリストに従い、早朝からシャワー室で手術部位の洗浄を行い、尿量を量り、鼻の穴に殺菌剤を塗り、昨日に続きアルジネードウォーターという飲む点滴のようなものを服用する。前夜の十二時以降は絶食なので朝食はなし。冷蔵庫で冷やした薄ら甘いアルジネードウォーターがおいしい。
 
 看護師さんの説明や先生方の診察、そしてto doリストの合間を縫ってひたすらゲラ直し。根を詰めすぎたせいではないのだろうが、午前中から頭痛が始まり、全身がだるい。気のせいとか心理的なものと言われそうだが、本当に体調が悪いのだ。手術が先送りになるのも面倒なので、看護師さんにも先生方にも不調は訴えない。
 横になると頭痛がひどくなるので窓際の椅子に腰掛けて仕事。その間にもPCや携帯に親類、友人、知人から、お見舞いメールが届き、せっせと返信する。
 
 三十年以上も昔、検査入院したときには、病院の特異な環境下、お年寄りや長期入院の人々に囲まれ、一日中パジャマを着て過ごす生活の中で、それまで居た世界から切り離されたような孤独感と閉塞感にさいなまれたものだ。ナースステーションに置かれた一台のピンク電話で、「用件は手短に」と看護師さんに釘を刺されつつかける電話だけが、元の世界へと繋がる命綱のような気がした。
 携帯電話、スマホ、PC。どこにいても繋がることの賛否は分かれるが、病室とシャバの間に細い道が開かれていることで、「気分が重病」な状態を免れることができる。
「今、重慶。ただいま現地スタッフと火鍋で宴会中」
「練習会場取れました、みなさん都合の良い日をお知らせください」
 メーリングリストやLINEで、様々な情報や連絡事項が入ってくる。頭上を飛び交う仲間内のやりとりを眺めているだけでも、自分は忘れられてはいない、すぐにそっちの世界に戻れるという感じがして気持ちが引き立つ。
 
 空腹をアルジネードウォーターで紛らわせ、昼前に手術着に着替えた後、夫が到着する。だが手術の開始は午後四時頃なのでまだまだ時間がある。絶食に加え午前十一時以降は飲水も禁止になり、暇をもてあましても、ちょっとコーヒーを飲みに一階のスタバまで、というわけにもいかない。
 頭痛と頭の重さ、だるさはますますひどい。血圧は100を割っている。もうどうでもしてくれ、と思ったところで時間が来た。
 
 あらかじめ指定された時間に、手術室のあるフロアに夫とともに移動。もちろん自分の足で。
 待合室に夫を置いてさらに移動。立ったまま麻酔医の先生とご挨拶。説明を受けた野武士のような大男の先生ではなく、スマートな雰囲気の若い方だった。促されるまま歩いていくと正面の観音開きの扉が開かれた。
 あの……手術室って、患者が歩いて入るんですか……。
 そりゃそうだ。まだ普通に立って歩ける状態なのだから。

 中に入って驚いた。緊張感が漂う静まり返って整然とした空間、ではない。先生方、看護師さんたちがぞろぞろといらっしゃって、真ん中に金属製の狭い手術台が。何よりも、たった今、前の手術が終わりましたという「活気」のようなものが感じられ、市場の精肉売り場を思わせる生々しい臭いが充満している。 
 本日最後の手術なのだ、と実感する。
「はい、それではそこに上がって仰向けに寝てください」
「はあ?」
 自分で金属製の踏み台を二段上り、台の上に横たわる。寒いなと思っていると足に薄い布団がかけられる。電気毛布のようなものなのか、温泉のようなじわっ、とした温かさが腰から下を包む。事前に精神安定剤など服用しているわけでもないのに、そのまま眠ってしまいそうな快適さだ。
「はい、これから全身麻酔をしますが、気を失うような感じじゃなくて、耳鳴りがしてだんだん眠くなりますからね」
 麻酔科の先生の説明。
 酸素マスクをあてがいながら形成外科のN先生が、「鼻の形、いいですね」。
 さすがはその道のプロ、と手術台の上でのけぞる。同時に、N先生の普通のガールズトークにこちらの気持ちがどんどんリラックスしていく。数秒後にテレビ音声のボリュームを絞るように先生の声が小さくなる。気持ちよい眠りが来た。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。最新刊は『鏡の背面』。
撮影:露木聡子

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