よみタイ

篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」
認知症の母を介護しながら二十年。ようやく母が施設へ入所し、一息つけると思いきや――今度は自分が乳がんに!?
介護と執筆の合間に、治療法リサーチに病院選び……落ちこんでる暇なんてない!
直木賞作家・篠田節子が持ち前の観察眼と取材魂で綴る、闘病ドキュメント。

第7回 再建の決断――「あと十分だけ、このお値段!」の心理

 四月三日早朝、銀座クレストンホテルをチェックアウトし、いよいよ聖路加病院に。総合受付を済ませた後、二階にあるその名も「ブレストセンター」に入る。落ち着かない気分で待合室に入る。赤やピンクの暖色系の女の子っぽいインテリアの部屋でも一際目立つのは、椅子席の向こうの座面の広い応接セットだ。ぐったりと背もたれに体をあずけた中年の患者さんの姿に、ああ、しんどいのだろうな、と思う。
 若いカップルの姿も目立つ。二十代と見える男女や三十代くらいのおそらくお子さんがまだ小さいであろうご夫婦の姿に、夫が「あー」と悲嘆のため息をもらす。
 若い女性の姿もある。
 彼らのすべてが必ずしもがんとは限らないが、恋愛、出産、子育て真っ最中の年代の方々にとっては、命を失う危険だけでなく、乳房を失うケースも含め、どれだけ衝撃的で不安な出来事か、と想像すると胸苦しい気分になる。還暦過ぎに発症した乳がんとはまったく心境も事情も違うのだと、その深刻さを思う。
 マガジンラックには女性誌に加え、乳がんに関する雑誌と本、パンフレット、専用下着カタログなども並べられている。無意識のうちに乳がん関係の資料を手に取った。
 昨今、かなり術法も進化し、中心部に生じたがんについても乳首を残して内部だけ取ることもできる、などという記事についつい目が行く。
 
 しばらくして名前を呼ばれ、まずは看護師さんと面談、続いて担当医の先生と初めての面談をした。
 担当医のT先生は女性。ドラマに出てくるような、目つき鋭く、化粧濃く、ビシッと物を言い、白衣の裾をひるがえして廊下をカッカッと歩く……みたいな女医に、私は今まで会ったことがない。
 若くて小柄なT先生も、にこにこリラックスした雰囲気で、見るからにものに動じないふう。「威張らない、わめかない、媚びない」の三拍子揃った信頼度高い系女子。
 まずは診察。このために前開きブラウスを着用。昨今、若い子向け、おばさん向けを問わず、前開きシャツやブラウスはすこぶる少ない。あってもフォーマルないしはビジネステイスト。受診時に着られるようなカジュアルなものは少ない。仕方なく、二十年も前に買った木綿のブラウスを引っ張り出して、地元クリニックの通院時から着ている。
 それの前をかぱっ、と開いて診てもらった後、乳腺クリニックからもらってきたデータについて、一通りの説明を受ける。そのうえで、まず手術日を決める。
「順当に行けばゴールデンウィーク明けですかね。あまり遅くならない方がいいので」と手帳を見ていたT先生が、「あ、私、四月二十日が空いてる!」
 あと二週間少々だ。
「でも先生、私、五月九日にラジオの出演があるんですが」
「えっ、何のお仕事をされてるんでしたっけ」
「文筆業です」
「ペンネーム、何ていうんですか」
「本名のまんま」
「あ、そうですか」
 先生はにっこり笑い、「術後二週間以上経っているから大丈夫でしょう。スタジオで座っているだけですよね?」
 あっさりOKが出た。

 先生はその場でチームを組む他のお医者さんたちに電話をかけて予定を確認。四月二十日の午後遅く、その日の三件目の手術となる、最後の時間帯に予約を入れてくれた。
 それにしても一日三件……。立ちっぱなし、緊張しっぱなし。先生たちもたいへんだなぁ、と思う。同時に、外科手術の信頼度は手術数、とも言われるから、これもまた安心材料だろう。
 術法については、期待した温存手術はやはり私の場合は取り切れない不安もあり、あまり勧められないと言う。ならば、と腹をくくり、術後の放射線治療も必要ない切除手術に決定。
 
 その先にさらに予想もしていない二択があった。
 再建するか、そのままか。再建するなら事前処置として「ティッシュエキスパンダー」といって、胸の筋肉と皮膚を伸ばすための円盤状のものを、切除手術と同時に埋め込む必要があるからだ。
 女六十二歳。閉経後十余年。出産、授乳経験がないので胸は垂れてはいないが、顔はシワ、タルミ、シミの三拍子揃った立派なばあさんだ。それが乳房再建。しかも健康な左胸はこのさき順調に垂れていき、再建した右だけが永遠にお椀形に盛り上がっている。
 考えたくもない。
 だが、もし片方を取ってしまったとしたら……。見た目は小池真理子さんのおっしゃるとおりの「ヒン」だが、胸幅が大きいために盛り上がりはなくても分量は予想外にある。
 それなりの重さのものが片方だけ消える。体のバランス、姿勢のバランスが崩れるのでは? この点を夫は非常に心配した。
「日本人の場合はそれほど巨乳ではないので大丈夫ですよ」と先生。
 とはいえ、服を着るときには無くなった方に専用パッドを入れる必要があるだろう。カタログで見たなまめかしいピンクの物体が頭に浮かんだ。いちいちそんなものをブラジャーの中に突っ込むの? あるいは肌に装着するの? 
 しかも私の唯一の趣味は水泳だ。そんなものを水着の中に入れてバタフライなんかやった日には……。コースロープ脇にピンクのクラゲのようなものがふわふわ浮いている図が頭に浮かぶ。嫌だ、絶対、嫌だ! それならいっそ皮膚の下に埋め込んでしまった方が……。
 
 迷っている私の前で、「もし再建するんでしたら、形成外科の先生との面談がありますから」と先生が日程表を広げる。
 再建は乳腺外科ではなく形成外科の領域だったのだ。きらきらしたピンクのバラの広告と美魔女女医の姿が頭に浮かぶ。一気に腰が引ける。
「手術日が近いですから、もし再建されるならすぐに形成外科の先生の予定を押さえますが」
 先生の手はすでに受話器にかかっている。それが最後の一押しとなった。
 よくあるテレビ通販の「あと十分だけです、あと十分のうちにお電話をいただければこのお値段!」の、あの心理だ。
「はいっ、お願いします、再建します」
 最敬礼して答えていた。

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。最新刊は『鏡の背面』。
撮影:露木聡子

週間ランキング 今読まれているホットな記事