よみタイ

篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」
認知症の母を介護しながら二十年。ようやく母が施設へ入所し、一息つけると思いきや――今度は自分が乳がんに!?
介護と執筆の合間に、治療法リサーチに病院選び……落ちこんでる暇なんてない!
直木賞作家・篠田節子が持ち前の観察眼と取材魂で綴る、闘病ドキュメント。

第6回 作家も同じ 働きながらがん治療

 四月二日の夕刻、乳腺クリニックで紹介状をもらったその足で築地に。
 翌日は九時までに聖路加国際病院で受付を済ませなければならず、夫と二人、聖路加タワーにあるクレストンホテルに前泊した。
 受診前夜のプチ贅沢に、壮行会を兼ねて築地の寿司とビールで夕食のつもりだったが、電車とバスを乗り継ぎ二時間半の長旅に加え、いよいよ明日執刀医と面談か、という緊張感もあって、チェックインして一風呂浴びたら疲れてしまい、繁華街まで出かける気力が失せた。ルームサービスを頼む趣味もないので、近場で済ませることにする。

 聖路加病院は噂と伝説に事欠かないところだが、最上階にフレンチレストランがあって出産を控えたセレブがお相手とご飯を食べている、というのもその一つだ(実際にはレストランは病院の建物ではなく、道路を隔てた向かい側のタワーのてっぺんにある)。ならばと勇んで出かけてみたが、エレベーターを降りたとたんに残っていた気力が失せた。その店のおしゃれで高級感溢れるたたずまいは、二十年前のよれよれブラウス姿(なぜその服装か、は後述)の風呂上がりおばさんと憂鬱そうな面持ちのバーコード亭主が入るには敷居が高い。そのままUターンし地下のとんかつ屋で済ませ、早々に部屋に引き上げる。

 眼下に流れる隅田川の暗い川面を眺めていると、ようやくここまで来たか、と奇妙に感傷的な気分になった。
 生まれてくるときは出生届け一枚で済むのに死んだときは山のような手続きがある、とはよく聞く話だが、入院、手術も同様、とにかく目が回るほど忙しい。
 所属している保険組合、生命保険会社、役所への問い合わせ、諸々の書類の作成。その合間に母のところに顔を出し、親類に頼み事をし……それより肝心なことがあった。
 今後の入院、手術、通院。この先、どんなペースで仕事ができるかわからない。
 この五、六年は、母の相手をしながらの執筆でかなりペースダウンしていたが、ここに至って、いったん停止しなければならないかもしれない。

 がんの確率が高いとわかった三月上旬には関係のある出版社にメールを送って事情を説明し、約束していた仕事について待ってもらうか、キャンセルの可能性も出てきた旨を伝えた。
「年間出版計画でもう決まったことなんだからよ、期限までに納入できなかったら違約金取るぞ」と言われたら困るが、「どうぞどうぞ先生、二年でも三年でもゆっくり養生なさってください。キャンセル? ぜーんぜんオッケーです」と言われるのも哀しい。
 担当編集者は良識ある企業人ばかりなので、当然のことながらそのどちらでもない。
「一応、○月発売号にご登場いただくつもりでしたので、それまでに仕上がるかどうか△月×日までにご連絡をください」の類いの、ありがたく、また合理的なお返事をいただく。しかし△月×日までに、仕上がるかどうかなどわからない。

 予想が出来ないことに悩むよりは書く方が早い。構想は出来ているから、とにかく入院前に第一稿を仕上げるために隙間時間を縫って書き始める。
 その他にも今年に入ってから書評や対談の仕事がいくつも入ってきていた。皆川博子さんの『夏至祭の果て』、田中兆子さんの『徴産制』『甘いお菓子は食べません』、小池真理子さんの『死の島』など、検査その他で訪れた病院やクリニックの待合室で立て続けに読んだ。
 どれもこれもおもしろかった。大当たりだ。
 若き日の皆川博子さんの凄まじいばかりの筆力と構成力にあらためて圧倒されると同時に「若いモン、しっかりせんかい!」と背中をどつかれた気がした。田中兆子さんの才気と、斬新そうに見えて実は真っ当な発想、味わい深い文章表現などにも目を見張る。小池真理子さんの『死の島』は、作家本人のお茶目な顔から一転、痛切な体験を経て人の死と切り結ぶような気迫が、静謐せいひつでロマンティックな世界の向こうにかいま見える。
 本が売れないと言われて久しいが、日本の小説のクオリティーはしっかり保たれている。

 仕事の中でも最大の気がかりは、七月に発売予定の、二年ぶりの単行本『鏡の背面』の著者校正だった。いったいいつまでに仕上げなければならないのか。
 担当者である新人女子をすっとばし、編集長宛に直接、「事情が事情だ。とっとと著者校ゲラを出せ」と、ほとんど脅迫、なメールを送る。
 実は四年前に亡くなった坂東眞砂子さんのことがずっと頭の片隅にあった。
 一回目の手術は成功、病気をしたとはまったく感じさせない元気な彼女と立ち話をして、またね、と別れてしばらくした頃、突然の訃報が入ってきた。
 私に出来る唯一の供養は彼女の残した作品を丁寧に読み、書評を書くことだけだったのだが、それが終わった頃に新刊が出た。彼女の絶筆作品だった。
 雑誌に掲載したものですでに完成しており、病床で書かれたとは思えない力のこもった作品だった。だからこそ同じ小説家の目には「最後の仕上げをしたかっただろうな」と思わせる部分もある。
 命に関わる手術でなくても、何があるかわからない。しかも私は坂東さんとは比べものにならないくらい、穴だらけ、矛盾だらけ、誤字脱字の多い、校閲者泣かせの原稿を書く女だ。万一に備えて、著者校正を済ませておかないと、永遠にこの世に未練を残しそうな気がした。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。最新刊は『鏡の背面』。
撮影:露木聡子

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