よみタイ

酒井順子「家族終了」
男女の夫婦に、子ども二人。
かつて日本の「核家族」はそんなイメージだった。
現代は、入籍も結婚もせず、子どももいたりいなかったり、
血縁関係なく同居していたり、同性同士がカップルだったり。
家族とは何だろう――変わりゆく「家族の風景」を考察するエッセイ。

第10回 継ぐ

 日本が誇る伝統芸能、歌舞伎。それは、ほとんど家族や親戚同士で演じているという、珍しいタイプの演劇です。親が立役で息子が女形だったりすると、舞台の上では、立役の父親が女形の息子を口説いていたりもして、いつも「変わってるなぁ」と思う。
 しかし歌舞伎ファンは、父と息子がラブシーンを演じたりするところに、「イイ!」と思うわけです。「男だけ」ということのみならず、家族で演じているところが、歌舞伎の醍醐味の一つではないか。
 家族による演劇であるからこそ、歌舞伎は、「観る」というよりも「観続ける」ことによって、より楽しむことができるのでした。
 歌舞伎の「家」の御曹司が子役として登場すれば、
「なんて可愛いんでしょう!」
 と、観客が皆、祖母モードに。歌舞伎で子役を務めるのは、「家」の子供達だけでなく、劇団に所属する子供であるケースもあるわけですが、観客達の拍手は明らかに、「家」の御曹司に対しての方がずっと分厚いのです。観客は、「血筋」を観に来ているといってもいいでしょう。
 その子役が成長していくと、
「大きくなったわねぇ」
 と目を細める観客達。さらに時が経って、かつて子役だった役者が大人になれば、
「どんどんお父さんと似てくるわね」
「お祖父じいちゃんにもそっくりよ」
 などと言い合うのです。
 歌舞伎ファンは、単に演劇を観ているのではありません。ファン達が観ているのは、「家族が、どのようにつながっていくか/いかないか」というところ。時の経過とともに、役者一家のあり方が変化していく様を確認するところに、歌舞伎見物の意義はあります。
 歌舞伎の世界では、名門の家の御曹司に生まれないと、良い役につくことはできません。坂東玉三郎ばんどうたまさぶろうのように、並外れた資質を持つ人が、歌舞伎役者の養子となってスターになるケースも稀にあるようですが、基本的には「家」に生まれた人の前にのみ、道は続いている。
 前進座のような劇団は、歌舞伎界における血統主義に反旗を翻した人達が作ったものだと言います。確かに、どれほど努力しても、「家」に生まれない限りは良い役がつかないとしたら、不満を持つ人が出るでしょう。別団体を作りたくなるのも、むべなるかな。
 しかし、家制度を強固に守る保守的歌舞伎と、「実力次第で誰もがスターに」という民主的歌舞伎とを比べた時、どちらが人気があるかといったら、前者なのです。後者は、経年による変化は、「あの役者も、年をとった」といったことくらいしか、感じることはできない。歌舞伎において、「家」に生まれた男の子が子役としてデビューし、やがて大人になって、子孫を残して死んでいく‥‥という、家がつながっていく様は、保守的歌舞伎ならではの見所。
 そういった部分において、歌舞伎を観るという行為は、皇室を観ることと似ています。どちらも、そこに男子として生まれたならば、他の職業選択はほぼ不可能という「家」。お世継ぎを残して、家を次につないでいくことが責務でもあります。
 どれほど民主的な世になろうと、その時に女は決して家を継ぐことはできません。その手の家において、女は徹頭徹尾、男を支える役としてのみ存在するのです。
 必ずや次世代につないでいかなくてはならないという家は、今や珍しいものとなっています。我が家のような終了家族では、
「ま、家がなくなるからといってどうということはないし」
「墓じまい、どうする?」
 などと、あっさりした気分で話し合っている。
 そんな世の中だからこそ我々青人草は、それらの家に生まれた人達について、ああだこうだと言うのが楽しいのです。歌舞伎役者にとっては、「家族をつなげる」ということもまた、芸の一部。歌舞伎など観たことがない人も、歌舞伎役者のゴシップを楽しむことができるのは、歌舞伎そのものの芸とは違い、「家族をつなげる」という芸は誰でも批評することができるからなのです。
 中村勘九郎なかむらかんくろう一家や、市川海老蔵いちかわえびぞう一家のことは、テレビ局がずっと追いかけている模様で、定期的にドキュメンタリー番組が放送されています。視聴者は、
「勘九郎さん、怖いくらいお父さんに似てきた」
 とか、
勸玄かんげんちゃん、まだ小さいのにあんなに芸達者で」
 などと、親戚気分で楽しむことができる。
 それは、天皇家においても同じことです。
浩宮ひろのみやさま、すっかり貫禄がついて」
 とか、
悠仁ひさひとさま、やっぱりお父さんに似てる」
 などという話をするのは、日本人にとってお天気の話をするようなもの。家族がつながらなくなってきている世の中において、歌舞伎の家や天皇家は、私達に「つながる家族」の幻想を見せてくれます。
 歌舞伎の家や天皇家のような伝統的家族は、人々から見られ、批評されることが運命づけられています。その時に我々が欲しているのは、禍福のコントラストの強さなのだと私は思う。
 たとえば、中村勘九郎一家。現在の勘九郎は六代目ですが、お父さんの十八代目勘三郎かんざぶろうは、二〇一二年に、五十七歳で世を去っています。
 歌舞伎界きっての人気者であった十八代目勘三郎の死は、歌舞伎界にとっても、一族にとっても、大きな悲劇。しかしその時、息子の勘九郎には既に男の子が生まれていたのであり、中村屋はさらに続いていく。‥‥という禍福ストーリーに、私達は涙しました。
 また市川海老蔵も、小林麻央こばやしまおさんと結婚して長女が誕生したのはよいけれど、父・十二代目團十郎だんじゅうろうが二〇一三年に亡くなると、その直後に長男が誕生。‥‥と思ったら麻央さんのがんがわかり、やがて他界してしまうという、禍福に次ぐ禍福という激しい運命の荒波に揉まれています。
 海老蔵さんを特集しているテレビ番組を観ていたら、
「功績を残すのではなく、人を残したい」
 といったことをおっしゃっていました。この時の「人」とは、もちろんお弟子さん等も含まれることとは思いますが、主には自身の子供のことを指すのでしょう。子を立派な役者に育て、三百年以上続く成田屋という家をつないでいくことが、大切。それに比べたら自身の功績なんて。‥‥ということではないか。
 歌舞伎ファン、および「家族」のファン達は、彼のこの言葉にグッときたことと思います。かつては深夜の西麻布でチンピラと喧嘩をしたりしていた人が、今やこのように立派なことを言うようになったのかと、我が子が成長したかのような満足感を得た人が、多かったのではないか。
 天皇家の禍福もまた、私達の大好物です。皇族メンバーが結婚しただの子供を産んだだのという時には、うんと喜ぶ。同時に、何か深刻な問題が発生した時も、目出度めでたい時と同じくらい生き生きと、目を輝かせるのです。
 昨今、皆が大喜びでかぶりついている皇室の話題は、眞子まこさまの結婚問題でしょう。婚約となった時は、「妹さんと比べるとお姉さんは地味な感じがしていたけれど、ちゃんと青春を楽しんでいらしたのね。よかったよかった」と寿ことほいだものですが、お相手の問題が色々と発覚したとなると、
「ああいう家の人は、自由に恋愛なんてしちゃ駄目なのよ。ちゃんと親が探して紹介してあげないと」
 とか、
「やっぱり深窓の令嬢だから、男を観る目が無い」
 などと、皆が大喜びで親戚のおばちゃんと化したもの。時にはイギリスの皇室のことについてまで、
「ダイアナさんが生きてたら、あの嫁のことをどう思うかしらね‥‥」
 などと、しゅうとめ視線で見たりするのもまた、楽しいものです。
 歌舞伎の家や天皇家など、同族のみで一種の職業を継いでいくスタイルは、今の世の中では主流ではありません。同族というだけで、能力的には今ひとつな人がトップに立ってしまうと、一般企業は立ち行かない。その企業のプロパーですらない、プロ経営者のような人がトップに立ったりもする今、同族企業とは反対の、実力主義的な動きが目立つのです。
 しかしそんな時代だからこそ、「同族の力」が見直されている気もします。たとえば、かつては同族企業だったけれど、既に創業一族が経営から外れている、といった会社。その手の企業が危機に陥った時、起死回生の策として、創業一族から経営者を選ぶことがあるものです。トヨタであれば「豊田」と名のつくトップを頂くことで、社員のロイヤリティーを喚起するなど、一種の「神降臨」感をもたらすことができるのではないか。
 日本人の中には、その手のことが嫌いではないという血が、今も脈々と流れている気がしてなりません。それはおそらく、武士の時代の影響ではないかと思うのですが、いわゆる大名家というのは、歌舞伎の家や天皇家と同様に、家族を延々とつなげていかなくてはならないシステムでした。世継ぎがいない場合はお取り潰しになったりもしたわけで、殿様達は側室でも何でも置いて、必死に家をつなげていったのでしょう。
 殿様の家臣達は、そんな君主に仕えることにうっとりしていたのではないかと、忠臣蔵など観ていると感じるものです。赤穂あこう藩主である浅野内匠頭あさのたくみのかみが、江戸城でキレて吉良上野介きらこうずけのすけに斬りかかってしまって切腹、というのが忠臣蔵の発端。主の無念を晴らそうと、大石内蔵助おおいしくらのすけら四十七人の家臣が、吉良を討った後に切腹することになります。
 この時、もしも浅野内匠頭が〝プロ経営者〟的な存在で、藩の経営のためだけにどこかから連れてこられた殿様であったら、四十七士は彼の為に腹を切ったでしょうか。彼が浅野家の御曹司であったからこそ、家臣達は「吉良、許さぬ」と忠誠心をたぎらせたのではないか。
 さらに言うなら、浅野内匠頭は、子供の頃に両親を亡くしています。家臣達は、幼い藩主を家族のように見守っていたことでしょう。そのこともまた、悲劇的な仇討ちへとつながった一因ではないかと思います。
 儒教においては、親への「孝」、君主への「忠」が重要視されています。儒教の影響が強かった江戸時代、親であれ君主であれ、自分より「上」の人々に対しては絶対服従、という感覚は日本人に染み込んだと思われる。そして儒教ではしばしば、孝やら忠やらのために、人々が尋常でない無理をしているのであり、そんな無理に対して、周囲の人々が、
「あっぱれ!」
 と、讃えたりしている。
 四十七士の討ち入り&切腹も、そんな「無理」の一つでしょう。彼等の場合、君主が死して後、雌伏の時を経て仇討ちを果たしたわけですが、仇討ちをすれば自分も切腹となるのを知っていながら決行に至った背景には、「つべこべ言わずに『上』に仕える」という感覚から発生する、孝と忠とが入り乱れた陶酔感があったのではないか。
 そんな時代の後、日本は大きく変化しました。明治の文明開化の時代となれば、切腹もちょんまげも過去のものに。第二次大戦後には民主化が進んで、家制度も解体。人間、上とか下なんて無いんですよ、という世になったのです。最近となればさらに意識は進んで、会社で上司が部下に対して無茶なことを言えばパワハラになりますし、家庭では親が子に無茶なことを言えば毒親とされる。かつて「上」だった人に絶対服従する感覚は、薄れてきています。
 しかし一方で、孝とか忠とかに陶酔したいという欲求は、まだまだ日本人の中に残っている気がしてなりません。夫を「主人」と呼び、主人を「立て」たり、主人に従ったり、従うフリをしたがる妻はたくさんいる。職場においてもまた、上司や業務に対して身を投げ出すようにしている人はいる‥‥。
 上に絶対服従というシステムは、人道的ではありませんが、「考えなくていい」という楽さをもたらします。ひたすら誰かに従うことによって自分が消失するからこそ、うっとり感が湧き上がるのでしょう。
 対して民主的で平等な世の中においては、いつも自分をしっかり持って、考えながら行動しなくてはなりません。だからこそ人は、上に従っていればよかったというかつての世に郷愁を抱くのではないか。家族の形態が多様化している中で、「代々続く」的な家族もまた、珍重されるようになりました。
 二世・三世の議員はいかがなものか、という声がいくら強くなっても、政治の「家」の候補者が強いのは、だからこそ。人々は血筋に対する何らかの期待を持って、一票を投じています。
 もちろん歌舞伎も、その手の感覚に支えられていましょう。舞台の上では、伝統的な家族の形態がデフォルメされて「そんな無茶な」という物語が展開していきますし、それを演じる歌舞伎役者の家族もまた、お世継ぎ必須で、男と女の主従関係がはっきりしている。演目においても役者においても、クラシックな家族のあり方という「懐かしの味」を、歌舞伎ファンは味わいたいのです。
 そして、天皇家。日本で最も「つなげていかなくてはならない」というプレッシャーが重いであろうあの一家は、存続の危機にさらされています。まだ歌舞伎の家であれば、子がなくても養子をとるという手がありますが、天皇家ではそうはいくまい。
 そう思うと今、天皇家もまた、家族の多様化という波に晒されているのでした。女帝問題や女性宮家といった問題については、悠仁さまが生まれてからというもの、「ま、考えるのはもう少し後でも」と、先延ばしにされています。悠仁さまが子孫を残さないと天皇家は断絶! というかなりギリギリの「禍」を、眞子さま結婚問題などにかまけて、誰もが見ぬフリをしている。
 もしも天皇家が断絶したら、どうなるのか。日本の家族観も、かなり変わるのではないか。‥‥などということをつい考えてしまうのは、私もまた、断絶する家族のはしっこに立っているから。そうなった後の日本をちょっと見てみたいという気持ちと、皇室ネタが大好きという気持ちを両方持っているのが、今の日本人なのだと思います。

※この連載は、集英社学芸編集部ウェブサイトに掲載された「パパ愛してる」「火宅」「心配」「家事」の4章(現在サイト上で読むことはできません)とあわせて、加筆修正の上、2019年前半に単行本化の予定です。

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酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。広告会社勤務を経て執筆専業。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を受賞。著書に『おばさん未満』『男尊女子』『女子と鉄道』『源氏姉妹』『an・anの噓』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』など、現代世相の分析から古典エッセイまで多数。

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