よみタイ

酒井順子「家族終了」
男女の夫婦に、子ども二人。
かつて日本の「核家族」はそんなイメージだった。
現代は、入籍も結婚もせず、子どももいたりいなかったり、
血縁関係なく同居していたり、同性同士がカップルだったり。
家族とは何だろう――変わりゆく「家族の風景」を考察するエッセイ。

第4回 祖母

 私は、紙ケチの性分を持っています。コピー用紙などは、裏も使用するのは当然のこと。一回はなをかんだティッシュもすぐには捨てず、何度もかんだりしております。
 地球環境を考えて‥‥といった理由によるものというより、それは子供の頃からの習い性。明治生まれの祖母が同居していて、幼い頃はよく一緒に遊んでいたので、折り紙なども、広告紙を正方形に切ったものを何度も折っては広げ、としていました。お絵描きももちろん、広告の裏。家で遊ぶだけなのに、サラの折り紙や画用紙など、もったいなくて使用できなかったものです。
 ですから湯水のようにティッシュを使用する人を見ると(実は湯水ケチでもある私なのだが)、もったいなくていたたまれない気分になる私。そちら側の人にとっては、同じティッシュで何度も洟をかむ私のような者を見ると「げっ、不潔」と思うのでしょうけれど。
 私よりも七十七歳も年上の祖母と共に暮らしていたからこそみついた、この習い性。以前にも書いた通り、共に暮らしていた祖母と私は、血がつながっていませんでした。しかし共に暮らしたことによって祖母の成分は確実に私の中に入り込み、そんな私の中に、祖母はまだ生きている気がするのです。
 東京では滅多に見られなくなった、三世代同居。それを体験することができたのは有難いことであったと、今になって思います。私が生まれたことによって家族の人数は五人となったのですが、それから祖母が他界するまでが、私の人生において最も多くの家族と同居していた時期でした。
 今にして思えば、トイレもお風呂も一つずつしかない平屋に、家族五人のみならず、多い時は犬が一匹に猫が二匹、よく一緒に暮らしていたなぁ、と思います。このように記すとまるで、和気藹々あいあいの仲良しファミリーであったかのようですが、特に仲が良いわけでもないファミリーであったところがまた、感慨深い。
 そんな中で祖母は、緩衝地帯のような役割を果たしていました。我が両親がどれほど生々しい修羅場を繰り広げようと、また私達兄妹がどれほどひねくれようと騒ごうと、静かにちんまりと炬燵にあたり、犬や猫をでていた祖母。それは人間の領域から次第に離れていく、神様っぽい存在でもありました。
 祖母は、いつも着物で髪はお団子という、『いじわるばあさん』(長谷川町子)とほぼ同スタイルの、まさに絵に描いたようなおばあちゃんでした。今、そんな「おばあちゃん」は、伝説上もしくは日本史上の生きものと化しています。今時の祖母達は、孫に「おばあちゃん」とは呼ばせず、「ばあば」などと呼ばれているようです。「おばあちゃん」ではあまりに年寄り臭い、ということなのでしょう。私の母などは「ばあば」すらも拒否し、孫が生まれてからは自分のことを「ようこさん」と呼ばせていましたっけ。
 しかし我が祖母は、「おばあちゃん」以外の何ものでもありませんでした。物心ついた頃から祖母は「おばあちゃん」であったため、かつて「おばあちゃん」ではなかったという事実など、考えもしなかった私。人は次第に年をとるということを、その頃の私はまだわかっていなかったのです。
 祖母は、常に平穏な空気をまとっていました。心の中では、様々な波風がたっていたであろうことは今になれば想像できるのですが、当時の私には、そんなことはわからない。
 今思えば、それは「諦念」がもたらす静けさだった気がします。養子ということで、何となく気を遣う相手であったであろう、自分の息子(=我が父)。その息子のところにやってきた、「今時の若者」(当時)以外の何ものでもない、チャラチャラした嫁(我が母)。そんな若夫婦との同居が始まった時点で、祖母は「何も口は出すまい」と、諦めていたのではないか。
 結婚当初からしゅうとめと同居するとは奇特、と私は母について思うのですが、年が離れすぎていたせいか、価値観が離れすぎていたせいか、祖母は嫁である我が母に対して、何ら口出しはしなかったようです。家事の権限はほぼ嫁に移譲し、自分は完全に隠居の身に。祖母の管轄は、仏壇と庭だけでした。
 生前の母も、
「おばあちゃんは、意地悪なところは全く無かったわよ」
 と言っていたものです。ま、だからこそ母は、姑と同居しながら家の外で奔放に遊ぶという暴挙に出ることができたのでしょう。
 いずれにせよ祖母は、戦後の教育を受けた異星人のような嫁を迎え、「何を言っても通じまい」と、思ったのではないか。耳が遠くなってきたせいもあり、虫眼鏡で新聞を読みながら、自分の世界に生きていました。
 キナ臭い関係の両親を持つ私は、そんな祖母の静寂が、好きでした。耳の遠い祖母がよく聞こえるように発声することも、私は家族の中で一番うまかった。小学生の頃は、学校から帰ったら祖母と一緒に庭の落ち葉を掃くという、一休さんのような日々を送ったものです。
 私が大学生の頃、祖母は九十九歳で他界しました。それからしばしば思うのは、
「おばあちゃんにもっと優しくしてあげればよかった」
 ということ。そして、
「おばあちゃんからもっと話を聞いておけばよかった」
 ということ。
 明治二十二年(一八八九)生まれの祖母は、関東大震災や二・二六事件や第二次世界大戦という、その頃の私にとっては日本史上の出来事を、生身で体験してきました。祖母が住んでいた場所のすぐ近くにも、二・二六事件の時は反乱軍が来たということですから、そんな話も聞いておきたかった‥‥。
 のみならず、祖母がどんな子供だったのか、どんな青春を過ごしたのか、そしてどうして祖父と結婚してどうして父を養子としてもらいうけたのか、といったことも、聞いてみたかったなぁ‥‥。
 明治二十二年生まれの祖母と、昭和四十一年生まれの私が共に暮らすということは、異文化交流に他なりませんでした。祖母が生まれた頃は、まだ十九世紀。大日本帝國憲法が発布されたり、パリ万博が開催されたりした年です。そして私は、昭和の高度経済成長期生まれ。それはビートルズが日本にやってきたり、「笑点」の放送が始まったりした年。七十七年の年を隔てて生まれた祖母と私は、運命のいたずらで、血がつながっていないのに共に住むことになった。そんな祖母は、タイムマシンに乗らない限り知り得ない時代のことを、知っていたのです。
 ああ、無念。‥‥との思いを募らせた私は、しばらく時が経った後、ハタと「こうしてはおられぬ」ということに、気が付きました。当時、私の祖父母群の中で一人だけ、母方の祖母が健在だったのです。
 時に母方の祖母、九十九歳。まだまだ生きそうなムードは漂っていましたが、とはいえアラウンド百歳、いつ何があるかはわかりませんので、なるべく早く話を聞いておかなくては、と思った。
 ちょうどその頃、私はおばあさんをテーマにした本を書いていました。様々なおばあさんについて調べていたのですが、「灯台下暗し。自分の祖母がいたではないか」ということで、話を聞きに行くことに。
 母方の祖母は、明治四十三年(一九一〇)に、鹿児島で生まれました。女子大進学のために東京に出てきて、祖父と出会って結婚し、以来東京に住むことに。
 鹿児島時代の話から聞いていったわけですが、それはかなり面白い体験でした。母方の祖母も、父方の祖母と同様、私にとっては物心ついた頃から「おばあちゃん」でしかない人でした。そんな祖母にインタビューをしてみると、東京に出てくる時の緊張感、親に結婚を反対されたこと、そして結婚後、祖父が浮気をした時に飲めないお酒を無理に飲んで急性アルコール中毒になった時のこと‥‥等、知らなかった話がたくさん。おばあちゃんも人間であり女である、というごく当たり前の事実を、私はその時初めて理解したのです。
 人は、自分の人生について、意外と家族には語らないということにも、その時に気づかされました。親ですら、自分の生い立ちなどは子供にそれほど語るものではありませんし、ましてや祖父母をや。以降、私は祖父母が健在という人に対して、
「面白いから、絶対に今のうちにお話を聞いておいた方がいいわよ」
 と、おすすめしております。
 母方の祖母は、インタビューから二年後、一〇一歳で世を去りました。我が祖父母群の中で、最も長くこの世にいた、母方の祖母。祖父は、その二十年ほど前に他界していましたから、それからは祖母がファミリーツリーの中心的な存在になっていたものです。
 私も、四十代になっても「おばあちゃん」と呼ぶことができることの幸せを感じ、祖母の家には、ちょくちょく遊びに行っていたものでした。
「あら順子ちゃん、ちょっと大きくなったんじゃない?」
 とか、
「もう暗くなるから、早く帰った方がいいわよ」
 などと、孫扱いされることも、ちょっと嬉しかった。
 祖母の他界後、祖母の介助をして下さっていた方と、話していた時のこと。その方が、
「おばあちゃま、案外人の好き嫌いがありましたよね。だいたい、男の人の方が好きだったみたい。◯◯さん(私の従兄)のことは大好きだったけど、そんなに好きじゃない人には、『危ないから、早く帰りなさい』なんておっしゃったりして」
 と言うのを聞いて、私はまた新たな発見をしたのです。「おばあちゃん、私に『暗くなるから早く帰れ』とか言っていたけど、それは孫の私を心配していたわけじゃなくて、本当に早く帰ってほしかったのか!」と。
 祖母の晩年、既に母は他界していましたので、私は母の名代気分で、祖母のところに行っていました。百歳の祖母に、娘が先立ってしまったことを知らせるのはいかがなものかということから、
「最近、ようこちゃん(=母)来ないわね」
 と祖母が言う時には、
「イギリスに遊びに行ったら、向こうでボーイフレンドができたから、しばらく滞在するって言ってた」
 という嘘をついて。
 実の娘が来なくなってしまったのは、寂しかろう。その代わりに私が‥‥と、祖母の好物などを持って通い、「親切な孫娘」気分に少しうっとりすらしていたのに、祖母の死後明かされた「私のことはそれほど好きじゃなかったのかも」疑惑。そうか、おばあちゃんは男性の方が好きだったのね。そりゃそうだ、おばあちゃんだって女子だもんね‥‥と私は、
おばあちゃんのことをおばあちゃんとしてしか見ていなかった自分を、再び反省。「おばあちゃんは好きな食べ物さえ持っていけば喜んでくれるだろう」というのは、傲慢ごうまんな考えであったことを、痛感しました。
 考えてみれば、女子大を卒業してすぐに結婚した祖母は、祖父以外の男性を知らなかったことでしょう。明治生まれの祖父は、ワンマンタイプの男でしたから、ずいぶんと苦労した様子が、インタビューの時にもうかがえたもの。
 しかし昔、母に、
「おばあちゃんってどんな人だった?」
 と聞いた時、
「子供達より、夫の方が大切っていうタイプだったわね」
 と言っていたことがあります。
 確かに、祖父はちょっと日本人離れしたイケメンだったのです。祖母が、浮気をされても祖父一筋、というのもわかる気はする。子供や孫さえ可愛がっていれば充足する人ではなく、男性を愛し、愛されたかったのかもなぁ。さすが、南国の女。‥‥と、私は思ったことでした。
 私はこれから、おばあちゃんになっていきます。子供はいませんので「祖母」になる可能性はありませんが、順調に年をとれば、「婆」にはなるのです。
 その時になったら、周囲が自分のことを「おばあちゃん」としか見てくれないことに、私は不満を抱くことでしょう。周囲の人は、
「おばあちゃん、お身体大切にね」
 とか、
「おばあちゃん、お荷物持ちましょうか?」
 と、自分をおばあちゃん扱い。その期待に応えて、気のいいおばあちゃんのフリをするだろうけれど、本当はイケメンの介護士さんにうきうきしたり、腹黒いことを考えてニヤニヤしたりしているのだろうなぁ。
 そうなった時、私は祖母達がかつて抱いていたであろう孤独感を、やっと理解できるのかもしれません。おばあちゃんというレッテルを貼るのはやめて。孫には一応、ニコニコしておくけど、必ずしもすべての孫が可愛いっていうわけじゃ、ないんだからね。‥‥と、祖母達は、言いたかったのではないか。
 私の家には、祖母達の写真が飾ってあります。それはもちろん、祖母達が「おばあちゃん」になってからの写真。その写真に対して、私は、
「おばあちゃーん」
 と語りかけたり、「会いたいなぁ」と思ったりしているのです。
 私の頭の中では、写真と同じ風貌の祖母達があの世にいるイメージなのですが、しかしそれは私の勝手な想像なのでしょう。あの世において祖母達は、晩年に余儀なくされていたおばあちゃんのコスプレを脱ぎ捨てて、自分が最も輝いていた時代の容姿になっているに違いありません。
 一九八八年、六本木のディスコ「トゥーリア」の照明が落下して多くの死傷者が出た事件があった翌日、炬燵で新聞を眺めながら、父方の祖母が、
「私も若かったら、こういう所に行きたいものですねぇ」
 と言っていたことを、当時大学生だった私はよく覚えています。「おばあちゃん、ディスコなんて行きたいの!」と。
 しかし今なら、その気持ちはよくわかる。今頃祖母は、冥界のダンスフロアにおいて、蓮華のお立ち台に乗って、機嫌よく踊っているのではないか。
 そして母方の祖母は、若き日のイケメン祖父に再会し、既に冥界にやってきている息子や娘になど目もくれず、でれでれしているような気がします。もしかすると、他のイケメンに目移りしている可能性も‥‥。
 そして私は、そんな祖母達と話してみたいなぁ、と思うのです。祖母と孫という立場を離れ、女同士で家族への愚痴とか恋バナとかを、言い合ってみたい。
 それが可能になるのは、私が冥界に行ってから、ということになりましょう。あの世で祖母達が若い頃の容姿に戻っていたら、それが祖母とは認識できないのではないか、という不安もあるものの、祖母達との再会を楽しみに待ちたいと思うのでした。

※この連載は、集英社学芸編集部ウェブサイトに掲載された「パパ愛してる」「火宅」「心配」「家事」の4章(現在サイト上で読むことはできません)とあわせて、加筆修正の上、2019年前半に単行本化の予定です。

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酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。広告会社勤務を経て執筆専業。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を受賞。著書に『おばさん未満』『男尊女子』『女子と鉄道』『源氏姉妹』『an・anの噓』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』など、現代世相の分析から古典エッセイまで多数。

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