よみタイ

母親がいない寂しさも、極貧な家庭に生を受けた境遇も、お湯に溶けて消えてしまえばいい 

 これまではそれでよかったのだが、健康と美容に目覚めてしまった現在の私は、お風呂との付き合い方を再考しなければならない。
 とりあえずひとっ風呂浴びてから考えますかと、今日も今日とて馴染みの銭湯へ。炭酸湯にゆっくりと浸かって今後の対策を練っているところに、顔見知りの老人がやってきた。
 この銭湯に四十年以上お世話になっているという常連客の爺さんだ。御年八十八歳。いまだに腰も曲がらず杖もつかず、自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、毎日この銭湯に通っている。朝風呂は自宅で、夜はこの銭湯で。一日のはじまりとおわりに入るお風呂が健康の秘訣だとよくのたまっている。

 迷ったときは先人の知恵に頼るべし。
「おくつろぎのところすみません。あの、お風呂のいいところってなんでしょうか?」という私の問いに、御大はべらんめえ調で答える。
「なんだろうなぁ、風呂もメシも同じじゃねえか? みんなで食べるメシも旨いし、ひとりで食べるメシも悪くはないだろ? それといっしょで、ワシはみんなで入る銭湯も、家の風呂も大好きなんだよ」
 長い間、私の目の前を覆っていた湯気が一気に晴れたような気がした。
 そうか、私はずっとずっと寂しかったんだな。寂しいという感情を騙し騙し生きてきた私は、孤独をちゃんと楽しむことができていなかった。自分が孤独だと知ったときに人は真の意味で強くなれる。孤独だからこそ他者とのつながりを大切にできる。
 そう、私は昨日も今日も明日も、きっと死ぬまで孤独なのだ。

 ちょっとだけ高価な外国の入浴剤、新品のボディスポンジ、洒落た石鹸置き、お風呂に入ったままスマホを触れる防水ケースなどなど、おなじみのドンキにて、最新のお風呂グッズをこれでもかと買い漁る。
 ようやく私は、ちゃんとひとりでお風呂を楽しめるんだな。
 意気揚々と帰宅した私は、我が家の浴室の様子を見て大きなため息をつく。うん、まずはお風呂掃除から始めなければ。

(イラスト/山田参助)
(イラスト/山田参助)

当連載は毎月第2、第4日曜更新です。次回は11月13日(日)21時配信予定です。お楽しみに!

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爪切男

つめ・きりお●作家。1979年生まれ、香川県出身。
2018年『死にたい夜にかぎって』(扶桑社)にてデビュー。同作が賀来賢人主演でドラマ化されるなど話題を集める。21年2月から『もはや僕は人間じゃない』(中央公論新社)、『働きアリに花束を』(扶桑社)、『クラスメイトの女子、全員好きでした』(集英社)とデビュー2作目から3社横断3か月連続刊行され話題に。
最新エッセイ『きょうも延長ナリ』(扶桑社)発売中!

公式ツイッター@tsumekiriman
(撮影/江森丈晃)

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