2025.6.11
甘味の幸せ
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この話は何度か書いているが、中学生か高校生の頃、当時新宿にあった「みつばち」という甘味処にいくと、若い男性が一人だけいて、パフェだったか、あんみつだったかは忘れたが、自分の他は全員女性のなか、背中を丸めてここにいませんとばかりに存在を隠しつつ、急いで食べて急いで出ていったのを見て、店内の私たちは彼に対して不快な感情は持たず、
「それほど食べたかったのね」
と見知らぬ同士でもうなずき合った。好きなものなのに、こそこそと食べなくてはならない彼が気の毒になってきたのである。私よりも十歳くらい年上だったと思うけれど、男性とスイーツの話になると、彼のことがいつも頭に浮かんできて、
「世の中が変わって、食べたいだけ甘いものを食べられているのかな」
と思う。
和菓子もそうだけれど、ケーキなどの洋菓子は特に、昔は一年に何度かしか食べられないものだった。この話も何度も書いているけれど、だいたい食べられるのは誕生日とクリスマスくらいで、日常に食べるものではなかった。それも私は十二月生まれなので、なぜかクリスマスといっしょくたにされるのは納得がいかなかった。
今はケーキはコンビニでも手軽に買えるようになったし、食べようと思ったら、毎日でも食べられる。テレビ番組でスイーツのランキングを観たことがあるが、専門店のパティシエが、
「このクオリティーのものが、この値段で作れるとは」
と感心していた。ケーキを含む洋菓子が好きなときにいつでも買え、食べられるようになったのは、コンビニのおかげもあるだろうが、それでもケーキ専門店にお客さんが集まり、毎年何らかの媒体で、必ずスイーツ特集が組まれるのは、手軽に買えて食べられるという、それだけではないものを求めているからだろう。
デパ地下の洋菓子売り場の前を通ると、あまりのまばゆさにくらくらしてしまう。まるで宝石が飾られているかのようだ。ケーキのひとつひとつが美しく、昔に比べたら値段もなかなかなのだが、そのひとつひとつがデザインされ、すべて手作りでずらっと並んでいるのはとても美しい。デパートはライティングにも凝っているから特別だが、町のケーキ店に手作りのケーキが並んでいるのも、外からちらりと眺めても楽しい。ショーケースのなかに、人々の幸せが詰まっているような気がする。
袋入りのものはカジュアルで、ひとつひとつ、丁寧に箱にいれてもらうものは、食べるだけではない喜びもある。洋菓子をほとんどといっていいくらい食べない私でも、そのときを想像するのは楽しい。一時期、スイーツが脚光を浴びて、洋菓子全盛になったときがあり、和菓子好きとしては悲しい思いをしたことがあった。それに伴って、閉店する和菓子店もあって、
「私の好きな餡子を使った和菓子は食べられなくなってしまうのでは」
と心配になったりもした。
しかしある時期から和菓子が盛り返し、昨今はインバウンドの影響で、外国人の間でも和菓子が人気と聞いて驚いている。かつては海苔については、「あんな黒い紙」といい、羊羹を「得体が知れない感触」といい、餅を「何の味もしないうえに奇妙に伸びる」などといっていた彼らが、喜んで雪見だいふくやみたらし団子を食べる日がくるなんて想像できなかった。これもまた、世の中としてはいい方向なのかもしれないが。
茶道のお稽古をするようになってから、師匠が心を砕いてお菓子を用意してくださるおかげで、和菓子の奥深さをあらためて知ることができた。洋服と和装の違いと同じく、洋菓子、特にケーキはどこから見ても美しい立体の美で、和菓子は季節を表現した平面の美ではないかと思っている。どちらもそれぞれ美しさの違いがあるが、私としては身近な和菓子のほうが好きなのだ。といっても口にするのは基本的にお稽古のときだけと自粛しているので、食べる量は少なくなった。
糖質の過剰摂取などの問題で、甘いものを避けがちにはなっているが、適量であれば、甘いものは幸せをもたらしてくれるとよくわかった。私の食生活からは全面的に排除はできない。毎日食べるものではなく、過剰摂取は避けるようにして、甘いものは特別な楽しみとして、とっておくことにしよう。
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次回は7月9日(水)公開予定です。
