よみタイ

甘味の幸せ

『かもめ食堂』のおにぎり、『パンとスープとネコ日和』の様々なスープ。
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。

イラスト/佐々木一澄

ちゃぶ台ぐるぐる 第18回 甘味の幸せ

イラストレーション:佐々木一澄
イラストレーション:佐々木一澄

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 久しぶりに新聞の小説連載をした。もちろんお仕事なので、ありがたいのだけれど、さすがに他の連載や書き下ろしをしながらの、七十歳を過ぎた毎日締め切りがある半年間の日々は辛かった。当初は、
「この先、半年もあるのか」
 と途方にくれたが、書いていくうちに全体の三分の一、半分、三分の二が終わり、あっという間に終わった気持ちになった。ということは、あっという間に半年が過ぎたということで、それはそれで恐ろしいのだが、とにかく約束した仕事を、中断もなく終えられたのはほっとした。しかしどっと疲れた。
 すべての原稿を渡し終わったその日の夜、風呂に入りながら、
「終わったー、やったー」
 といいながら背伸びをして、満足感に浸っていた。ところが翌日、朝起きたとたんにくしゃみが何連発も出た。これまでにもくしゃみが立て続けに出たことはあったが、そういうときは鼻水がどっと出て、それですっきりする、という具合だった。しかし今回は違っていた。かんでもかんでも、文字通り水のような鼻水が出続けた。
(もしかしたら花粉症?)
 と不安になったのだけれど、鼻水の症状以外には咳も出ないし熱もないし、目もかゆくない。ただただくしゃみと共に、水のような鼻水が出るのである。
 とりあえず葛根湯を服用してみたら二日で治った。この話を漢方薬局の先生にしたら、笑いながら、
「疲れが溜まっていたんでしょう」
 といわれた。たしかに何らかのものが鼻水と共に排出されたのだろう。
「たまには甘いものでも食べて、のんびりしたらいいわよ」
 先生はとてもおいしかったと某店のおすすめのケーキを教えてくれた。私は和菓子のほうが好きで、会食の際のデザートに供されたケーキはいただくけれど、自分で買って食べることはほとんどない。洋菓子で買うのはクッキーくらいだろうか。それも手土産にする際に、ついでに自分のものも買おうかなという程度で、積極的に購入しているわけではない。あん、特につぶ餡が好きなので、小豆を煮てそれだけを食べるのも平気である。せんべいも好きだ。
 両親は牛乳を飲むとお腹をこわす体質だったため、乳製品が苦手で家にはなかった。牛乳の宅配も頼まず、瓶入りのヨーグルトはたまに買ってくれたけれど、乳製品が身近ではなく縁が薄かった。会食のときにパンと共にバターが出てくるけれど、私は塗らない。なかにはバター好きの人がいて、バターだけでも舐めていられるというのを聞いて、へええと妙に感心した記憶がある。洋菓子には牛乳もバターも加えられているが、さすがに今回は食べてみたいと思った。彼女のおすすめはモンブランとティラミスで、早速、調べてみたら、どちらもとてもおいしそうだった。私としては珍しくそれらのケーキを買いに行く気持ちになっていたのである。
 ところがインターネットで、たまたまいろいろなケーキの糖質量とカロリーの量が一覧できるグラフを見てしまった。グラフの左下の角が糖質もカロリーもいちばん少ないケーキで、右にいくほど曲線がぐっと上がって、糖質量もカロリーも最も高い頂点に鎮座していたのが、モンブランとティラミスだったのである。さすがにそれを見たら、どちらも食べる気にはならなかった。私は正月前に太ったまま増えた分が元に戻らず、これ以上食べたら明らかにいけない状態になりそうだった。
 そこできっぱりとその二種類はあきらめ、そのグラフのなかでは、最も糖質もカロリーも低かったバスクチーズケーキを、高級な部類といわれているらしい近所のスーパーマーケットで購入し、
「私はこれでいいです」
 と満足した。久しぶりにケーキの類いを自分で買って食べて、
「たまにはいいものだな」
 としみじみとした。
 世の中がスイーツブームになって、ずいぶん年数が経つけれど、昔を知っている私としては少し驚いている。私が若い頃は甘いものは「女子供のもの」であって、男性が食べるものではなかった。私の父親はお酒が飲めず、甘いものが好きだった。勤め人ではなく家で仕事をしていたため、同僚との付き合いや接待とは無縁の人だったので、安心して甘いものを食べ続けられたのだろう。おやつの甘いものも母親が作っていたので、私や弟がホットケーキを食べたくても、父親が、
「きんつばが食べたい!」
 といったらそれに従わざるをえなかった。ハイカラなお菓子は、彼がホットケーキを食べたくなるまで、じっと我慢の日々だったのである。
 多くの男性は甘いものをばかにして、
「男は酒だ!」
 と飲んでいたような気がする。その一方で、「女が酒を飲むなんて」という偏見もあった。それからずいぶん時が経って、スイーツ男子が現れた。こういう言葉があったこと自体、まだ特殊な社会だったといえるだろう。しかし今はそんなことをいう人などいない。男性もスイーツ好きなのが当たり前になり、世間が変わっていくのは喜ばしい。

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『しあわせの輪 れんげ荘物語』『雑草と恋愛 れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』『捨てたい人捨てたくない人』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『小福ときどき災難』『今日は、これをしました』『スマホになじんでおりません』『たりる生活』『老いとお金』『こんな感じで書いてます』『老いてお茶を習う』『六十路通過道中』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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