2025.2.12
トリュフには関わらない
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第14回 トリュフには関わらない
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世の中には食べることが大好きな人がいるけれど、私はそうでもない。たしかに自分には絶対に作れない、おいしくて贅沢な料理を店で食べられるのはとても楽しみだけれど、率先して自分で店を調べて訪れるということは、ほとんどない。仕事の打ち合わせの会食、あるいは飲食店に詳しい友だちに誘われて行くというほうがずっと多い。一度だけ、友だちと娘さんを、母が大好きだったデパートの中にある和食店にご招待したことがあったが、それも私が何度か行った経験があったからにすぎない。そのためにわざわざ店を探したわけではないのである。
食べるのに熱心な友人は、アンテナを張って、飲食店の情報を得ようとする。そして周囲の人からの口コミを聞いてそれがよければ、すぐにその店に行ってみる。地方であっても車を飛ばしていくのである。そんな話を聞くと、こんな私でも、
「どうだった?」
と聞くのだけれど、最近彼女は、首を横に振るケースが多くなった。
「あんな店に星が四つ以上付けられているのが理解できない。絶対に裏から手を回して、知り合いにおいしいっていうコメントを書いてもらっているのに違いない」
と憤慨する人もいた。グルメサイトの口コミには、様々な味覚の人が書き込んでいるので、参考程度にしたほうがいいのだろう。そんな経験をたくさんしたので、友人は知人からの口コミしか信用しないというようになった。しかしそれでも個人の味覚に違いがあるので、
「どうだった?」
と聞くと、
「うーん」
と首を傾げる。味付けがしょっぱかったり、甘かったりと満足する店がないそうだ。
あるときその友人が、蕎麦が食べたいといったら、知り合いが蕎麦で有名な店だという、ある店に連れていってくれた。都心から電車で二時間近くかかる場所にある店だった。友人は蕎麦を楽しみにしていたのだが、実はそこは蕎麦店ではなく、食事の最後に蕎麦が出る高級和食店だった。行くときから蕎麦の口になっていた彼女は、正直、食べたいとは思っていなかったコースの刺身や煮物などをいただきながら、
(まだ蕎麦は出ないのかな)
とそればかりを考えていた。しかし料理自体がゆっくり提供されるため、とにかく時間がかかる。
「蕎麦を待ちくたびれて、途中で眠りそうになった」
といっていたが、誘ってもらった手前、そんな態度も見せられない。何とか場を持たせながら、やっと蕎麦が登場したのだが、たくさん食べたい友人にとっては、
「これっぽちなのか?」
というくらいの量しか出てこなかった。恥を忍んで、
「おかわりはできますか」
と聞いたら、即座に、
「できません」
と断られた。
「こんな小さなざるに、ひと並べしかないのよ。一、二回箸で持ち上げたら、それで終わりの分量なの」
友人は両手で直径十センチほどの輪を作った。そして、
「蕎麦も驚くほどおいしくなくて、おまけにつゆが、めちゃくちゃ甘い!」
と怒っていた。
誘ってくれた人はどうだったのかと聞いたら、当人は御飯を頼んで食べていたという。そして蕎麦を前にした友人を見ながら、
「ここの蕎麦は最高なんだよ」
といったのだとか。
(それならどうしてあんたは頼まない?)
と聞きたかったのをぐっと堪え、
「ああ、本当ですねえ」
と取りあえずいって完食して箸を置いた。
「おいしい蕎麦が食べられるって聞いたから、こんな遠くまで来たのに、そのあげくがこれかって、いやになっちゃった。先付が出されてから蕎麦が出てくるまで、三時間近くもかかったのよ」
長時間、おあずけを食ったあげく、「何だこりゃ」といいたくなるようなものが出てきたらショックだろう。声をかけてくれた知り合いには、気持ちを悟られないように、きちんと礼をいって帰ってきたのだが、二度とその人が薦める店は信用しないと友人はいっていた。
「五時間かけてあの蕎麦と量は、本当に納得できない」
その店に連れていった人も、友人のメインは蕎麦という気持ちを汲んであげればいいのに、どうしてそんな店に行ったのか理解できなかった。
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