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引退覚悟で臨んだアトランタ五輪の10番。 遠藤彰弘が語る、マリノス初優勝と上野良治

1995年12月6日、国立競技場。横浜マリノス初優勝! この年のセカンドステージにデビューした遠藤彰弘(写真中央)は2戦ともに先発し優勝に貢献。遠藤の後ろでカップを掲げる同期の川口能活ら多くの若手を抜擢したシーズンでもあった。(写真/©J.LEAGUE)
1995年12月6日、国立競技場。横浜マリノス初優勝! この年のセカンドステージにデビューした遠藤彰弘(写真中央)は2戦ともに先発し優勝に貢献。遠藤の後ろでカップを掲げる同期の川口能活ら多くの若手を抜擢したシーズンでもあった。(写真/©J.LEAGUE)

上野良治とは、言葉はなくとも互いを活かすことができる関係性

 鹿児島に遠藤3兄弟あり――。
 次兄、彰弘は鹿実3年時に全国高校選手権に出場し、準決勝で川口のいる清水商に敗れるも大会優秀選手に選ばれた。のちに監督を務める、当時スカウトだった早野宏史から声をかけられ1994年、横浜マリノスに加入する。同期にはその川口のほか、早大を休学して鳴り物入りで加入し、注目されていた上野良治らがいた。

「(木村)和司さん、(水沼)貴史さん、シゲ(松永成立)さん、井原(正巳)さん……雲の上の人たちばかりでしたから、この人たちのなかに入ってプレーできる自信なんてまったくなかったですよ」

 合宿では、なぜか木村と同部屋に。緊張して話かけることもできず、大先輩から買い出し指令が下ると2つ返事しかなかった。とはいえ嫌ではなかった。

「和司さんはレジェンド中のレジェンド。メチャメチャうまかったですからね。あのころは先輩が自分から何か教えてくれるってなかなかないじゃないですか。だから和司さんの背中を見なきゃいけないし、ちょっとしたことでも何かコツを盗めないかと思っていましたね」

 1年目はトップチームの練習にもほとんど参加できず、大半をサテライトで過ごさなければならなかった。そのサテライトの練習についていくだけでも必死だった。
「まったく通用しない」現実を突きつけられるなか、同じ境遇の川口には助けられた。サテライトの練習でも寮生活でも一緒。ガムシャラに頑張れたのも、高校サッカーのスター選手が熱を持って練習に取り組んでいる姿に「こっちも負けてられない」と思えたからだ。

 翌1995シーズンはアルゼンチン人指揮官ホルヘ・ソラリのもと、この年に加入したばかりの松田直樹ら後輩が先にリーグ戦デビューを果たし、川口も続いた。

「さすがに焦りましたね。僕の場合はチャンスがないことに変わりなかったし、このままだったらクビなんだろうなって」

 いつも崖っぷちなんだから焦ったところで仕方がない。いつかチャンスが来ると信じて、練習に取り組むしかなかった。
 潮目が変わったのはソラリが健康上の理由でチームを去った後、コーチの早野が監督に昇格してからだ。高校時代にスカウトされた早野のもと、1995年8月23日、セカンドステージ第4節の清水エスパルス戦で待望のJリーグデビューを果たすと、右ウイングバックのポジションで一気に出場機会を増やしていく。ファーストステージ覇者として臨んだヴェルディ川崎とのチャンピオンシップでも第1戦(1-0)、第2戦(1-0)ともに先発し、マリノスのリーグ初制覇に貢献している。

「途中出場が多かったので、チャンピオンシップに先発で出るなんてまったく考えてもなかった。メチャメチャ緊張して、試合前日は眠れていないです。カズさん(三浦知良)、ラモス(瑠偉)さん、北澤(豪)さん、武田(修宏)さん、ビスマルク……当時のヴェルディの凄いメンバーと戦うなかで、俺が先発メンバーに入っていいのかなって。でも、ある程度やれたという感覚もあって、それはもう自信になりましたよ」

 土壇場に追い込まれたときに底力があらわれる。
 まったく出番がなく、クビも覚悟した薩摩隼人は半年後、チャンピオンシップで輝きを放ち、翌1996年のアトランタオリンピックを経て、今度は現役の終焉まで覚悟した左アキレス腱のケガを乗り越えてボランチにポジションを移して自己のモデルチェンジに成功するのだから。
 監督がデラクルス(1998-1999)から、アルゼンチン代表の名選手として知られたオズワルド・アルディレス(2000-2001)に移行しても、同期加入である上野良治とのドイスボランチは名コンビとして評価を得ることになる。
 遠藤はこう述懐する。

「良治さんはうまくて、経験値もあって、同期だけど本当に尊敬していました。お互いを活かすことができる関係性。僕が『前に行きたい』と言ったら行かせてくれたし、もちろんその逆で、良治さんが『今日、俺、行くわ』って言うときは僕が違う方法を取る。そんなにたくさんしゃべるわけじゃないけど、分かりあっていたように思いますよ。
 当時はシュン(中村俊輔)もいました。シュンはシュンで気を使ってくれますし、僕のなかでは俊輔が今でも1番のプレイヤーなんですよ。シュンと良治さんと3人で中盤をやっているときは本当に楽しかった。みんなの弱い部分もお互いカバーし合いながら、良さが消えないというか。1999シーズンからは、そこにまた尊敬しているアツ(三浦淳宏)も加入したじゃないですか。ゲームを支配できるし、そういう意味では最高でしたね」

 そしてチームの絶対的な存在になりつつあった遠藤に、ターニングポイントになる出会いが訪れようとしていた――。

(後編に続く)

【プロフィール】
えんどう・あきひろ/1975年9月18日生まれ、鹿児島県出身。
遠藤三兄弟の次男として、鹿児島実業で活躍。高校卒業後の1994年に横浜マリノス加入。
2004年には10番を背負う。マリノスでは1995年、2003年、2004年と3度の優勝を経験。
2005年7月にヴィッセル神戸に完全移籍。2008年、引退。
1996年のアトランタオリンピックでも10番を背負いブラジル代表に勝利。
Jリーグ229試合出場14得点(F・マリノス在籍時210試合出場14得点)

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第2回 引退覚悟で臨んだアトランタ五輪の10番。 遠藤彰弘が語る、マリノス初優勝と上野良治
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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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